決しておもねず、決して妥協せず--。誰にもおもねることのない一人のエンジニアがいた。決して人嫌いではなく、ただひたすらに、テクノロジがもたらす価値を社会に還元するために。常に最善を尽くす姿勢が時に反発を招いても。それがエンジニアという生き方である。主人公「渡瀬浩市」は、どんなエンジニアなのだろうか。

「恋人はコードだけだよプログラマーらしく答える君を愛した」

 文芸誌に投稿して1位になった私の短歌である。私はその短歌をデータベースのエンジンの研究で渡瀬研究所にこもりっきりの渡瀬浩市にメール添付した。

 もう随分、サッシ窓を開けたことのない研究室だった。研究に没頭すると渡瀬は窓を開けて外気を取り入れることさえ忘れてしまう。渡瀬にとって窓は、わずかに開けたブラインドの隙間から時々、向かいの樹木を無意識に眺める程度のものだった。

 渡瀬が心の窓を開くのは、自分と同レベルのエンジニアに出会ったときである。世の中にSE(システムエンジニア)と呼ばれる人間は大勢いるが、渡瀬が認め、心を開くエンジニアはそう何人もいない。それほど渡瀬はSEに対して厳しい目を持っていた。もちろん、自分自身の仕事にも妥協しない男だった。

 気がつけば私の周囲にはSEの男性が多かった。SEの中でも渡瀬だけにこの短歌を見せたくなったのは、渡瀬なら私の期待を裏切らない返信を寄越すのではないかと思ったからだ。

 「0」と「1」の信号のような機械的思考で判断するSE。彼らにこの短歌を見せたとしたら、「自分は国語、苦手でした」とか「今時、短歌なんて古いじゃん」などとあしらわれてしまうことは分かっていた。だが、物事を深く考え、追求する渡瀬なら真剣に受け止めてくれるだろうと私は思っていた。

 1時間後、渡瀬から返信がきた。

「すべてのエンジニアを代表して、お礼を申し上げます」

 私の目はその一行に釘付けになった。「すべてのエンジニアを代表して」などと普通のエンジニアが口にすることはないだろう。何て、渡瀬らしい返信なのだろうと私は興奮した。

 実際、渡瀬はその実力と見識を兼ね備えていた。

「君はSEらしいがシステムエンジニアではなく、サービスエンジニアなのかね?」

 日本オラベル統括本部長の渡瀬は、日本ファイブマイクロシステムのSEに向かって、静かだが重々しく言った。日本オラベルは、今では当たり前のように利用されているデータベース管理ソフトの開発・販売会社である。渡瀬は、オラベルシリーズの開発に初期から携わってきた中心的存在でもある。

「渡瀬部長、それはどういう意味でしょうか? 私はできるだけ顧客の要望に応えられるように努力して前向きに営業をかけているのです。もと弊社の先輩でおられる渡瀬部長のお言葉とは思えません」。

 30代前半のSEはボールペンを持っている右手を振るわせて言った。

 渡瀬は、身長175センチ、体重65キロ、目鼻立ちが整ったいわゆる“イケメン”である。整った容姿だけではなく、声が特に魅力的だった。映画007シリーズのジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーの声の主として有名な若山弦蔵に似たセクシーな低音なのである。しかし、その容姿とセクシーな低音から発せられる言葉は普通のSEには辛辣なものだった。

「営業担当者なら何でも『ハイハイできます』と言って、営業を取らざるを得ないだろうが、我々はエンジニアだ。納期が遅れそうだと思ったら、顧客に説明し、同意のうえで進めたほうが良い。前向きも後ろ向きもないんだ。何でも客に迎合するな。エンジニアとしての誇りを持て!」