社会主義に勝利したかのように見えた資本主義だが、このところ資本主義に吹きつける風は冷たい。アメリカ発の強欲・金融資本主義の崩落現象後の悪あがきに怒るマイケル・ムーア監督は、舌鋒鋭くキャピタリズムをこきおろす。さて、日本の資本主義はどうなるのか。そこを見極めるためには日本的資本主義の来歴を知る必要がある。

東京農工大学大学院技術経営研究科教授
松下博宣

 『第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書』で触れた「創世記」では、働くことは原罪の対価であるという見方で一貫している。また古代ギリシャのプロメテウス神話でも、人間は神の庇護から離れ大地から命の糧を自分たちで得ていかなければならないという途方もない苦役を課せられたという話が出てくる。

 アリストテレスは、働くことは市民を腐敗させると説いているし、ソクラテスは、健全な市民は商業などに従事すると友情や愛国心を失うので市民による労働を禁止すべきだと主張している。プラトンは、人間の働きの中で最も高貴なことは哲学すること、次に戦争をすること、最も価値が低いことは労働である、と言っている。労働は奴隷のものであったのである。

 かたやヘシオドスは「労働は恥ではない。働かないことこそ恥だ」と述べ、パウロは新約聖書の中で「落ち着いた暮らしをし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(テサロニケの信徒への手紙)と言った。このように古い時代の西洋社会では、労働について賛否両論があるものの、否定的見解に立つ見方が支配的だった。

働くこと=労働の換骨奪胎

 働くことについてネガティブな見方が大勢を占めていた西洋社会だが、近代の契機は、この労働観の大逆転から始まった。よく知られているように、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下、プロ倫と略す)の中で、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、カルヴィニズム(プロテスタントの一派)の宗教倫理から生まれる禁欲であるとした。

 嗜好品、アルコール、娯楽、セックスを断つというような禁欲ではない。この点は誤解のなきよう。それぞれの職務の労働に一生懸命、専心して励みながらも、世俗的な富の追求や過剰な消費には距離を置いて慎むといった行動的禁欲(aktive askese)である。

 宗教改革の指導者カルヴァンの予定説は絶望的な説だ。つまり、救済される人間は前もって予定・決定されており、人間の意志や努力でこれを変更することは絶対にできない。禁欲的にせっせと労働に励み、この世に神の栄光をあらわすことによって、「自分は救われている」という確信を持つことができるようになるというのだ。

 ヴェーバーは、このような一見積極的な金儲けに反するようなピューリタンの行動様式(エートス)こそが、実はその富の蓄積の推進力となり、ひいては近代資本主義の基礎となり得たと論じる。『第9講:イスラームの葛藤』で述べたように、契約更改の概念とともに、行動的禁欲に支えられた労働の絶対化が西洋社会の近代化に大いに貢献している。

 もっぱら奴隷が労働を担当し、労働が蔑まれていた地域から人格的一神教が発生している。そして奴隷制度の変質・散逸とともに労働が奴隷でない人々も行うようになるにしたがって、働くことの意味も変化する。「働くこと」が「労働」として位置付けられるようになるのは、実は近代以降だ。

「日本的勤勉の精神」の源流

 さて、日本ではどうか。日本神話の最高神、天照大神は熱心に機織りをして「働くこと」を実践している。なんと神様が汗を流して働いているのである。これは、人格的一神教では絶対にあり得ない情景だ。そしてこのような風景は、単に日本神話の中の話で終わることではない。

 一例のみ挙げる。現代でも皇居には天皇陛下が稲を栽培する水田があり、天皇陛下自ら田植えや稲刈りをなさる。君主を仰ぐ国家は多いが、天皇のように、自ら水田に入り稲を育てる君主は空前絶後ではないか。

 さて、1990年代のバブル崩壊に至るまで、日本経済は世界から「奇跡」とまで讃嘆されるほどの経済成長と栄華を体現していた。そこで、大東亜戦争の敗戦後、この怒涛のような経済発展を説明するのには、日本資本主義の構成原理を説明する必要性が急浮上してきた。

 しかしながら、日本は断じてキリスト教国家ではない。日本には、マックス・ヴェーバーが近代資本主義の精神と呼んだ敬虔なプロテスタントの世俗内禁欲の行動様式(エートス)は存在しない。なんといっても日本では、一神教キリスト教徒の人口は1パーセントとて超えたことがないのだ。こうして、日本の資本主義が発生した仕組みをどうのように説明したらよいのかが、日本の知的社会の一大関心事となっていったのである。

 こうして、カルヴィニズムを中心とする敬虔なプロテスタントの禁欲のエートスを代替する日本的に宗教的なるものの存在を説明して、もって日本資本主義と西洋に発展した近代資本主義に同型の原理を見出してゆこうとする研究が始まった。

 ただし、戦後の知識社会を総舐めにしたマルクス主義の唯物史観のひな形に、日本近代資本主義を無理やり押し込もうとした試みはあまり良いことではなかった。そんな中にあって、日米でのヴェーバー学の系譜は、タルコット・パーソンズ、大塚久雄、そして小室直樹といった研究者に継承されてきている。