上司に気のりしない仕事を頼まれたとき、それを断るのは勇気がいることだ。嫌な顔をされるだろうし、評価が下がるのではないかと不安になる。仕事だから、と自分に言い聞かせて結局引き受けてしまう。だが、まつもとゆきひろ氏は、やりたいことをやればいいという。(日経コンピュータ、文中敬称略)

(写真:伊達 悦二)

 「最近の若いプログラマは、特に断れない人が多い。社会人になってから景気が良かった経験がないから、ここで断ったら仕事がなくなるのではないかという不安が強いようだ」。Ruby開発者のまつもとゆきひろはそう危惧している。「僕は、新人のころから会社や上司にはっきり意見していた。嫌な仕事は断る。それでも、今も好きな仕事を続けられている」。

 まつもとの趣味はプログラミング。「好きな趣味を仕事にできた僕はラッキーだった」と楽しそうに語る。中学生のころから、プログラミングが一番好きだった。大学でもコンピュータ工学を専攻し、プログラミング漬けの日々を送る。卒業後、「プログラミングで食べていけるなら、こんな幸せなことはない」と、ソフトウエア開発会社に入社した。世はバブル期。特にコンピュータ工学専攻の人材は不足しており、就職には全く苦労しなかった。

 その後CADベンダーを経て、現職に至るが、仕事で悩んだり行き詰ったりしたことは一度もないという。「好きなプログラミングだけやっていればよかったから、悩まなかった。僕は、プログラミングに関しては、時間と熱意があればたいていのことはできてしまう」。

 まつもとの場合、上司に臆することなく意見してきたことが、幸運なキャリア形成に繋がっている。「上司から見たら、うるさくて使いづらい部下だったと思う。だから、好き勝手にやらせておけるような業務を任されたのかもしれない」。

 中学生のころから、「プログラミングで何を作るかでなく、プログラミング言語そのものに強い興味があった」というまつもとは、いつか本格的なプログラミング言語を作りたいと考えていた。1993年、バブル崩壊後の不景気で業務量が減ったので、仕事の空き時間を利用して念願のプログラミング言語作りを開始した。こうして出来上がったのがRubyである。

 「会社のパソコンを使って開発をしていたが、会社側はRubyを作っていることは知らなかったと思う。空き時間を有効利用したとはいえ、今ではコンプライアンス上、あり得ない話ですね」と笑う。

 1995年にオープンソースソフトウエアとして公開したRubyは、世界各国の技術者から評価された。当時インターネットが台頭し、テキスト処理ベースのプログラミング言語の適用範囲が急拡大していたことも、Ruby普及の追い風になった。しかし、まつもとはWeb市場の拡大を見込んでRubyを作ったわけではない。

 「自分の仕事の大半がテキスト処理だったが、Perlのような従来のスクリプト言語には不便な点があった。もっと効率の良い言語が欲しかったので、 Rubyを作った」。Rubyを作ってみたら、偶然、Rubyの強みが生きるWeb分野が急拡大したのだと、まつもとは説明する。「好きなことをやっていたら、周りがついてきた」。