科学は客観的であるという。確かに,スコラ哲学の神学論争から,現代においては邪馬台国論争のようなレベルまでが大手を振っている文系学問とは異なり,科学が提示する数字は厳密なものである。もちろんアインシュタイン以来の量子力学が指摘するように「限られた条件下で」という話ではあるが。

 とはいえ,科学という分野に属する諸学問が,世界各地ですべて同じレベルで発達してきたかといえば,そんなことはない。ある時代,ある地域で,ある科学分野だけが“アンバランスに”発達するということが,過去にはあった。つまり,他の分野がほとんど未発達な状態なのに,一部の科学や技術だけが発達している社会があったのである。

 この事実を,現代人が理解することはかなり難しいようだ。それは,科学はこれこれこういう過程で発達するものという“常識”に支配されているからである。そしてこれが,世の中に「謎の古代文明」が数多く登場する背景ともなっている。一部の技術だけが発達した社会が信じられないために,「超古代文明があった」となるわけである。

「車輪」を持たなかったイースター島の人びと

 たとえば,南大西洋に浮かぶイースター島の巨石文明の謎は,「宇宙人」とか「ムー大陸」などと結び付けられてきたが,その謎の根源には“技術”の問題があった。イースター島には,「車輪」というものが存在しなかった。それなのにどうやってあの巨大な石像のモアイの材料を切り出し,運搬したのか。

 現代人は子供の時から車輪を知っている。「本有観念」さながらに,誰もが最初から,車輪は知っていて当然と思いこんでいる。しかし,実際には,南米のマヤ王国やインカ帝国のように車輪を持たない文明も存在した。全世界を車輪が席巻したのは,人間の歴史上比較的新しいことである。まだ相互の交流が現在ほど活発でなかった時代,車輪を知らない人たちは結構多かった。

 イースター島もそうした車輪を持たない文明の一つだった。車輪の代わりに,大きなものの運搬にはコロ(小さな丸太を並べて上を転がしていく方法)を利用していた。そして豊富であった木材を利用して「モアイ」の運搬にコロを使い続け,島中の樹木を消費し尽くしてしまった。その結果,森林を失い,滅んでいったのである。

 文明を維持するために,その文明に合わせて自然を改造し,その自然が破壊されるとともに滅ぶ文明は多い。それは「覇者は進化しない」の理屈通りで,従来の生活を維持しつづけ,その怠惰の中に安住し,肥え太ることになり,気がつかないうちに土台を破壊していくのだろう。

 古代文明に謎が多いのは,文字という技術を持たない文明が多かったということもある。口頭での伝承により様々な出来事は記憶されてきたが,「神々の黄昏」でも「ノアの箱船」でも,総じて神話というものは何事かを象徴的に表わすことが多い。文字がない口頭伝承では,さらに難解な謎を生むことになったのだろう。

 車輪や文字だけではない。「鉄」の利用は現代人にとって当たり前の技術だが,これもまた,ある特定の社会がある時代に必要とし,発達させた技術だ。神話の時代から鉄を作ってきた日本人にとり,鉄を知らない文明は想像できない。だが現実に,インカ帝国は鉄を知らなかったし,マヤやアステカに至っては,金属とは金銀のことであった。その一方で,インカは巨石文明を,マヤは医学や天文学を発達させた。

 こうして見てくると,科学技術は,数値によって表されるという点では客観的と言えるが,その発達の背景には,ある特定社会のニーズに応えるという主観的な要素を含んでいることがわかる。現代においても,こうした視点で科学技術の方向性を捉え直すべき段階に入ったように思える。