池末 成明/有限責任監査法人トーマツ TMTグループ シニアマネジャー

テレビを見るメディアとしての携帯電話は,期待通りの需要を生み出すに至っていない。その原因は金融不況だけでなく,既存のテレビに視聴者が釘付けにされている「過剰慣性」にある。今回は,なかなか立ち上がらないモバイル向けテレビ放送の現状を取り上げる。

(日経コミュニケーション編集部)

 世界の携帯電話業界では,モバイル向けテレビ放送がここ10年にわたって注目を集めている(表1)。しかし,主要国のモバイル・テレビは不調なままだ。2009年のモバイル・テレビの加入者数はアナリストの予想を下回り,全世界でも3000万人に届かないだろう。

表1●主要国でのモバイル向けテレビ・サービス
総務省「諸外国における携帯端末向けマルチメディア放送サービスの動向」(2007年10月29日)をベースに一部情報を追加・更新
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表1●主要国でのモバイル向けテレビ・サービス<br>総務省「諸外国における携帯端末向けマルチメディア放送サービスの動向」(2007年10月29日)をベースに一部情報を追加・更新

 新しく始まるモバイル・テレビがある一方で,サービスを終了するものも少なくない。日本のモバイル・テレビの草分けであった「モバHO!」は,2009年3月末に放送を停止。英国やドイツでも,相次いでサービスが終了した。さらにドイツでは,MFD(Mobiles Fernsehn Deutshland)の子会社,Molile3.0が商用試験放送を始めたものの,本サービス開始前に廃業に追い込まれるといった事態も起こっている。

金融危機が普及の逆風に

 モバイル・テレビの普及を阻害する原因の一つには,100年に一度とも言われる金融危機がある。通信や放送業界は,流動性の低下からキャッシュを重視し,新しい放送システムに投資しづらい。

 また広告の面でも,広告主は携帯電話を実験的な技術標準(フォーマット)ととらえており,過去に実績のあるフォーマットにのみ資金を集中している。クリエイティブ業界も,メディア業界の売上高が落ち込んでいる現在,リスクを冒してまで新しいフォーマットを試そうとはしない。

 さらに,日本だけでなく海外でも,消費心理の冷え込みと携帯電話端末の販売奨励金の減少のダブルパンチで,モバイル・テレビ対応の高価な高機能端末の市場への供給が減速している。消費者の7割以上が,通話や携帯コンテンツ閲覧などの利用を削減しており,モバイル・テレビを含む新しいサービスを契約するつもりもないようだ。

 市場が成果を上げられないのならば,政府はどうか。欧州連合(EU)のICT戦略であるリスボン戦略は,モバイル・テレビに限っていえば成果を上げられていない。EUの情報メディア委員会は,「サッカーの欧州選手権や北京オリンピックが開催される2008年は,モバイル・テレビの普及において重要な年になる」と期待したものの,モバイル・テレビの需要を喚起することはできなかった。しかし,不況だけがモバイル・テレビの敗因だろうか。

同様の現象は過去のFM放送にも

 この現象を引き起こしたもう一つの原因は,米国経済学者のファレルとサローナーが主張する「過剰慣性(excess inertia)」と思われる。過剰慣性とは,放送や通信のように,ネットワークの利用者の規模が価値を決める市場において,市場が既存の技術標準にとどまり,より優れた技術標準に移行しないことをいう。過剰慣性との戦いは,光ファイバや地上波デジタル放送の普及でも共通したテーマだが,モバイル・テレビの過剰慣性は過去にも酷似した現象がFM放送やAMステレオ放送で発生した。

 FM放送は戦時下の1941年に米国で始まり,1946~48年に本格的な普及が図られたが,市場はAM放送に逆戻りした。その原因は,(1)FMラジオの受信機が高価だったこと,(2)FM帯域の変更が市場の混乱を招いたこと,(3)AM放送より音質が優れるFM放送の利点を視聴者に伝えきれなかったこと──などだった。また,米国のAMステレオ放送では,1982年,フォーマットの決定を市場競争に委ねた結果,フォーマットが乱立して市場が混乱した。

 モバイル・テレビも,(1)世界市場では携帯端末が高価であること,(2)フォーマットが乱立して混乱していること,(3)モバイル放送が他の放送より優れていると感じられないこと──など,FM放送やAMステレオ放送と酷似した課題がある。日本ではワンセグ受信可能な携帯端末が広く普及しているので,ここでは(2)と(3)について見ていきたい。