サービス定義への賛同宣言

 「サービスとは、人・物・金・情報を対象として、これを目的に応じて取り扱うに当たり、その支援とこれに伴う付加価値を提供する機能である」とし、提供者と受給者間の相互作用や、共創、非営利活動も含むという碓井氏の提案は、私自身が携わってきた各種のサービスを包含しており、賛同したい。

 唐突な出だしになってしまったのは、この順序で私見を展開するのがこのコラムではふさわしいと考えたからだ。私がこれまでに研究・教育という仕事にかかわってきた15年間で、サービスという概念をどう定義するかは、多くの重要な課題の1つだったのである。

人工知能研究者として、データマイニングへの懐疑

 東京において電子情報学をおさめ工学で学位を取得した後、私は大阪大学の基礎工学部でロボットビジョン(ロボットの眼)の開発を中心テーマとする研究室で4年間助手として働いた。私はそこで、機械が自分の外側にある情報を解釈するためにコンピュータがどう推論するのがよいかという人工知能の研究をスタートしたのだが、この時に、解釈の候補として、有限個の仮説を与えておかなければならないことにジレンマを感じていた。

 例えば、滅多に地震の起きないA県で珍しく震度3程度の揺れが観測された時に、コンピュータにその地域で地震を起こす可能性のある活断層が仮説として与えられていなければ、下手をすると「隣の県の有名なB断層の地震が原因」という推論をすることになる。もし、A県に道の断層があって1万年来の大活動を開始していたとしたら、これだけで甚大な被害を人々は受けよう。しかし、地面を掘りながら経験を活用して地球の内部を調べる能力を持たないコンピュータでは、人が押しつけた仮説を組み合わせるのが関の山だと私は絶望を味わった。

 諦めの気持ちを半分持ちながらもこの問題を解決するための数本の論文を書いていた1995年ごろ、私はデータマイニングという概念に接する機会を得た。データマイニングとは、有用で、新しく、そして自明ではない知識をデータから獲得する技術のことで、当時はまだ新しい分野として登場していた。

 外の世界の情報を集めたのがデータであり、そこから知識を得るということは、私が実現したいと思っていた未知の仮説を発見することではないかと心を躍らせた。そして、しばらくして再び絶望した。データマイニングの技術として紹介されていた内容が、すべて私が一度「なんだ、人が押しつけた枠の中で推論するだけか」と読み捨てた当時の人工知能技術の表現を少し変えた程度のものだったからだ。

 例えば、POS(販売時点情報管理)データから相関ルールを抽出する手法というのがある。これは、同じ買い物の時に購買されたさまざまな商品の間にどのような関係があるかを、スーパーなどのレジのデータから自動的にとらえるもので、「パン」と「チーズ」が同時に買われることが多いことをコンピュータが計算で見いだしたら、パンを買った人にチーズを推奨するヒントとして使うことができる。

 私が90年代中ごろ熱心に勉強し研究テーマにも取り入れていたベイジアンネットワークにはさまざまな進化形があって、自動車の動きや人間の行動を予測するのに役立つ技術として現在に至っている。ベイジアンネットワークは相関ルールに似ている点もあるが、さらに広範な商品の間で購買の因果関係が絡み合う様子をモデル化することもできるし、ある購買行動が別の行動から間接的な結果になっているというような関係も、原理的にはある程度理解ができる。高速道路のある地点を通っている赤い自動車が、それ以前のどの地点をいつ通った自動車と同一であったかを推論することもできるので、デパートにおける顧客の移動を追跡することもできる可能性はある。

 しかし、私の知る限り、これらの応用はサービス現場において、それほど必要とされていない。保険会社で多くの顧客との会話をデータ化してデータマイニングを施せば、「顧客が子供の教育資金の不安について話をすれば、学資保険を紹介すればよい」という頻出パターンを見いだせるだろう。しかし、それは正確な規則かもしれないが、そんなことはマニュアルに既に記載されている(べきだ)。

 もちろん、オペレーターあるいは窓口従業員の知識が不足していたり、マニュアルが読みにくかったりすれば、このような高頻度のパターンを抽出する解析結果も有益だ。満足を与えられていなかった顧客の質問や、喜ばせようと思ったら例外的に怒ってしまった顧客の存在も見いだすことができる。

 しかし、これらの解析結果の背景にどのような顧客の心理があって、それがどういう理由で例外的な反応を引き起こしたのかを理解することはできない。そして、この点の理解こそが、顧客に持続的な満足を与えるサービスの原動力となる。

 私がよく知るある子供は「偏差値が65%以下なら、第1志望の合格確率は20%以下ですから諦めなさい」といわれたが、この選択をとらず「必死に努力して偏差値を上げる」ことによって見事に第1志望の学校に入り喜んで通学している。学習塾ならば、「必死に努力する」子供の心を育てることをサービスとするべきであろう。

 このレベルになると、顧客に対する共感性という人間独自の能力が必ず求められることになる。さらに、修練を積んだサービススタッフは顧客に対して、過去にも誰かが経験した満足ではなく、その人だけが味わえる感動を与えるレベルまで高めることが求められるようになる。そこでも、顧客の感動をサービス提供側が感じ取る、すなわちやはり共感性が求められるのである。

 それゆえ、現場のフレッシュマンたちは、まず挨拶や話しかけの仕方など、顧客接点におけるおもてなしのための基本的な行動を学ぶ。顧客と直接会話をして満足を与えようとするサービス業界の方々がベイジアンネットワークや相関ルールを使うだけで顕著に業績向上とその持続を両立させたという声を、少なくとも私は聞かない。