『論語』には、「知」についての記述が随所に出てきますが、「知」に関する最も有名な文章の1つは、子罕第九の「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」ではないでしょうか。この条は字の如く、知者は惑わない、仁者は憂えない、勇者は恐れないというわけです。

 筆者自身が、この文章を初めて読んだ時に思ったのは、惑わない、迷わないほどの「知」とは一体どういう「知」なのだろうか? その正確な意味、内容、実体は何なのだろうか? そして、なぜ惑わないのか? ということでした。

 爾来、長年折に触れて「知」の意味を考えてきました。他方、雍也第六の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」という文章があります。意味は、字の如くかとも思いますが、次のような意味になるのではないかと思っています。

 「知者というのは、常に流れて一瞬たりともとどまることのない水を楽しみ、大きな人間愛を持つ仁者は、どっしりとして悠々たる山を楽しむものだ。知者は心が活発であり、日々に行動や変化、動きを楽しんでいる。他方、仁者は山の美しい静寂な風景を心静かに楽しんでいるといえよう。その結果、知者は仕事や人生、様々な活動を楽しみ、他方、仁者は常に悠々としてあくせくしないから、健康で長寿である」

 筆者は、孔子が水と山、動と静、楽と寿、と対比しながら述べているところに深い味わいを感じています。同時に、孔子が教育者として弟子たちにいかに分かりやすく伝えようと工夫していたかということです。

なぜ、知者は惑わないのか?

 さて、冒頭に述べた、惑わないほどの知者の「知」とはどのようなものなのでしょうか。なぜ知者は惑わないのでしょうか。

 「知」は「学問や知識があり、物事の正しい道理を理解している、明らかにしている」という風に一般的に解釈されていますが、その中味としては、孔子が「水」という以上は、「水」のようにフレキシブルで柔軟な思考力ということが、まず意味として想定されるのではないでしょうか。そして知者は、物事を深く読み取ることができる洞察力、先見力、情報収集力、情勢判断力があるといえるでしょう。

 先を読んでの対応力、改善・改良の創意工夫、リスク対応力など、さらには仕事などのスキルやノウハウ、その向上なども含まれるといえるでしょう。同時に、物事の小さな予兆、兆しからでも、チャンスやリスク、人の心や動きを読む能力、今後の展開の先を読む能力なども「知」に含まれるのではないでしょうか。

 もし、そのようであれば、知者は惑わないといえます。ただ、これだけでは孔子の場合は、少し足りないような気がしています。惑わないためには、自分自身の夢や目標、ブレない哲学、信念が必要であると考えていたのではないでしょうか。

 筆者がそう思う理由は、孔子が周公のような徳に基づく理想の政治を夢としながら、生涯、道を追求し続けたからです。その意味で、夢や目標、自分の哲学、信念、心を形にするのが、「知」といってよいかもしれません。

 そう考えると、夢や目標、自分の心や思いが「知」によって形になるから、孔子が雍也第六でいうように、「知者は楽しむ」、人生を楽しめる、楽しいということになるのではないでしょうか。ちなみに中国古典においては、「知」と「智」という使われ方がありますが、筆者が知る限り実質的に差はないといっていいでしょう。