怖い話を聞いた。某大メーカーの幹部が雑誌をパラパラとめくっていたら、大口取引先であるメーカーの広告が載っていた。さっそくその幹部はそのメーカーを訪ね、「いやあ結構なことですな、このご時勢に広告をお出しになる余裕があって」と皮肉ったらしい。そう言われた中堅メーカーでは即日、広告出稿を停止したという。

 業績不振で広告宣伝費を大幅に削減している大手メーカーの心証を悪くしたくないという配慮であろう。「余裕があるとみられたら、必ずや厳しく値下げを求められる」という現実的な理由もある。とにもかくにも、大切な顧客に「余裕がある」と見られてはならないのである。

 かく言う私だって、上の人から「みんな忙しそうなのに、君は余裕だねぇ」などと言われたら、その瞬間からものすごく忙しそうなフリをして「いやぁ、ヘラヘラしているように見えるかもしれませんが実はすごく大変なんでして」とか、思いつく限りの悲壮ネタを披露することになるだろう。

 相手チームの選手に足を引っ掛けられたサッカー選手が派手に痛がってファールをもらいにいくのと同じである。ずいぶん痛そうにしているけど、スローで見たら「あれ?」とか思ったりする。もちろんそうするのは、その方が得だから。格闘技の選手などでは逆に、パンチを食っても「あ、何か当たりましたか?」くらいの顔をしている。余裕たっぷりなフリをしていなければ減点されるからである。けど、スローでみると「わぁモロ入ってるよ」なんてことがしばしばある。

余裕やムダは排除という常識

 ビジネスの現場でも事情は変わらない。納入先には「これ以上値引きはできません。もう瀕死の状況でやってるんですぅ」などという顔をしなければならない。けれど、融資してくれる銀行などには瀕死の状況であっても「あ、うちは大丈夫、不況のダメージがないとは言いませんが、まあ軽症、そんなことではクジけませんよ、ガハハ」とか余裕をかましておかないとマズいことになるかもしれない。

 けど、私たちの日常でいえば、まあどちらかというと「余裕があるねぇ」と言われたら「いえいえとても」と言っておいた方が無難というケースが多いようだ。余裕がありそうだと見なされると「だったら、これでもやってもらおうか」とか「じゃあ今日はおごりだな」とか、余計なものを引き受けざるを得なくなる公算が高くなるからだ。

 そうでなくとも私を含め企業人は、余裕をムダの同義語とみなしがちで、業務改善のために余裕というかムダというか、そんなものがあったら即解消するということが習い性になっている。私自身も、少なくとも仕事の場ではそうしているに違いない。たぶん。けれど、趣味嗜好からいえばムダと呼ばれるものも嫌いではないし、その効用を信じていたりもする。机に座ってぼーっとしているときに小さなヒラメキを得たり、逆に「とりあえずいらない」と思って排除してしまったことに想定外の効用があったことに気付き、後でホゾを噛むなどということをしばしば経験しているからだ。

 「問屋」という存在もそんなものかもしれないと、最近考え始めた。もちろん論拠というか妄想で固めた屁理屈というか、そんなものもある。それをくぼたつさんにお話ししてみたら「うーん、そうだよなぁ。オレ、問屋不要論者だったけど、反省しなきゃ」と激しく同意していただいたので、いい気になってご紹介させていただこうと思い立った次第である。

それは1冊の本から始まった

 とにもかくにも江戸時代からごく近世まで、問屋は大きな力を持っていた。だが最近は、分野によっては存続すら危ぶまれるほど存在感が薄まっているようだ。専門家の指摘によれば、それが「流通システム上のムダ」「不要なもの」とみなされ、「そんなものを温存しておく余裕はない」ということで敬遠されるようになったのは、一冊の本がキッカケだったのだという。1962年に出版された『流通革命』(林周二著)である。

 この中で林氏は、「問屋は将来淘汰され、日本の流通は革新的な小売業によって近代化されていく」と予見された(参考記事)。「モノ、サービス、カネ、情報等の伝達機能である経路系の諸機能を高度化し、中間業者である問屋を排除することなしに、わが国経済の国際競争力の強化はない」との立場をとったのである(参考記事)。この著書に触発され、中内功氏がダイエーの大改革に乗り出した、などということもあったようだ。

 林氏の予見通りの事態が出現した。問屋を飛び越し、小売店が直接産地から買い付ける、メーカーから取り寄せるということが当たり前になったのである。ネットの普及で最近では、小売店すら跳び越して、消費者が直接、製造者、生産者から購入するということもめずらしくなくなった。実際、その「金銭的メリット」をしみじみと実感する機会に遭遇した。

値札と価格の格差

 妻と二人で染色作家さんの展覧会をのぞいてみたのだが、そこは展覧会というより、「特設高級着物即売会会場」といった雰囲気が漂っていた。その作家さんの作品を扱うギャラリーの方が説明員として立っておられ、妻が反物など見ていると音もなく近寄ってきて「これなんかすごくお似合いになると思いますよ、ちょっと当ててみていただける、ほらやっぱり、すごくいいわ」などと猛烈に褒めるのである。その横で私は「乗せられて買ってしまうのでは」とやきもきしていたのだが、そこは意外にしっかりしていて、「そのうちゆっくりと」などとその場をすり抜けてしまった。

 そんな様子を横目で見ながら、私は作家さんに染色の技法とかについて話をうかがっていた。すると、「京都の工房は見学もできますのでぜひお越しください、一応販売もやっておりますので」とおっしゃる。妻もそれをしっかり聞いていて、早速、観光を兼ねて出かけてみようということになった。自分的には工房見学が目当てだったのだが、妻的な興味は販売にあったらしい。そこであれこれと迷ったあげく、1本の反物を購入することになった。おどろいたのは、その値段である。

 反物には、たとえば20万円などという値札がついている。けれど、対照表があり、20万円のところには35万円などという値段が書かれていた。「これ、何の値段なんですか」と聞くと、反物についているのが卸値で、対照表がいわゆる「希望店頭価格」なのだという。「で、おいくらでお譲りいただけるんですか」と聞くと、作家さんは「6掛け」でいいという。20万円の方の4割引、つまり12万円でいいというのだ。

 たぶん、こんなことになっているのだろう。作家は12万円で問屋に売り、問屋はそれを小売店に20万円で卸す。それを小売店は35万円で消費者に売る。問屋、小売店という2段階の流通機構を経ることで、工房出荷価格で12万円の反物は35万円になるのである。そのうち問屋を飛ばせば、小売店は12万円で仕入れられるようになり、作家のところに直接押しかければ消費者が12万円で手にいれられるようになるわけだ。