東京農工大学大学院技術経営研究科教授
松下博宣

 前回,仏教に縁のある厩戸皇子(聖徳太子)と秦氏について語ったので,このあたりで世界3大宗教の一角を占める仏教を諜報謀略論の俎上にのせる。抹香臭い話はさておき,仏教の歴史に埋め込まれたインテリジェンスを解きほぐしていきたい。近現代の社会に甚大なる影響を及ぼした仏教思想の底流には,「個人,企業,国家の方針,意思決定,将来に影響を及ぼす情報・知識を収集し,活用する」というインテリジェンスの連鎖が存在する。

宇宙の不変法則を説いた仏教

 まずは仏教の基本から。仏教とは歴史的に実在した仏陀釈尊が説いた法と教えを実践する宗教である。シャカ族の王子,ゴーダマ・シッダールタは放浪の旅に出て悟りを開き,釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)と呼ばれるようになった。一神教では「God」が真理だが,釈尊は宇宙の不変法則(因果律)をダルマととらえ,それを真理とした。

 では,仏教の真理とは。
これあれば,かれあり。これ生ずれば,かれ生ず。
これなければ,かれなし。これ滅すれば,かれ滅す

諸行無常 → 万物は常に変化して終わりがない。
諸法無我 → 万物は「因縁」の作用によって生じるので実体,実在はない。
涅槃寂静 → 煩悩が吹き消された悟りの世界(涅槃)は最高の安らぎである。
一切皆苦 → すべては苦である。

 最初の3つの命題が三法印で,一切皆苦を加えて四法印という。以上は教えである。釈尊は,輪廻転生からの解脱を最重視し,プラクティカルなメソドロジ(修行法)を残している。四念処法,四正勤法,四如意足法,五根法,五力法,七覚支法,八正道,である(雑阿含経「応説経」)。例えるなら,専門職大学院の7分野における全35講座の実践的なトレーニング手法のようなものである。

 以上が本来の仏教の基本の基本なので,ぜひ覚えておこう。

 さて,釈尊の入滅後,100年くらい経ってから仏教教団は分裂した。「上座部」という伝統的秩序を保つ集団から独立して,新しく改革派の「大衆部」というグループが形づくられたのだ。これを仏教学の分野では根本分裂という。仏教学者の中村元が推察するように,当時のインドでは,農業,商工業,人々の往来,貨幣経済が急速に発達しつつあり,格差も広がり社会状況が混沌の様相を呈し始めていた。

 その後,教団は様々な部派に分岐。それに伴い,いろいろな経緯があり,たくさんの経(経典)や論(論文,学説)が創作され世に出てきた。法華経が書かれたのは,釈尊滅後からほぼ500年後のことで,紀元前50年から紀元前150年くらいのことである。そして創作された多くの経や論は北の方向に伝わって中国へ伝搬した。

仏教の普及を促した,天台智者大師のインテリジェンス

 時は経て,隋の時代の中国。智顗(ちぎ,538 - 597年,以下尊称の「天台智者大師」とする)は,インドから中国に伝わってきた仏教経典に精通する博覧強記の僧である。

 お釈迦様が説いた言説を記録した経典はすべて尊いはずなのだが,あまりにも膨大で,短い一生ですべての経典を読むことは凡人ではできない。どの経典にプライオリティを置いて読んでいったらいいのか。信者にどのように説いたらよいのか。天台智者大師は,このような切実な疑問と課題に直面した。

 そこで七難八苦の末,天台智者大師は,仏教の全仏教経典の価値を判定したのである。これを教相判釈(きょうそうはんじゃく)という。経典の品定めである。ただし「大きな前提」を天台智者大師は設定した。

 すなわち,「すべての御経はお釈迦様が説いたことがらを記述した正当なテキストである」と。

 この大前提のもとで,天台智者大師は次のように経典の価値を判定した。お釈迦様は,最初に華厳経をお説きになった。その教えが難しいため人々が理解できなかったとして,次に平易な阿含経をお説きになった。そして,人々の要望に応じて,方等経,般若経をお説きになった。最後の8年間で法華経と涅槃経をお説きになった。そして入滅の前,最後に説いた法華経がお釈迦様の最も重要な教えであるとした。これを五時教判(ごじきょうはん)という。

 天台智者大師ほどの高僧が苦心してこのような結論を下したので,隋の仏教界はもちろん,大方はその教えに従った。そして遣隋使や渡来民を通して仏教を摂取した日本も,天台智者大師の教えに沿って仏教を信仰するようになったのである。606年に聖徳太子(厩戸皇子)が法華経を講じたと日本書紀は伝えている。

 仏教伝来前の日本には輪廻転生の思想はなかったので,日本仏教は「輪廻転生からの解脱を図る」という,そもそもの仏教の目的からズレてゆくことになる。

 それ以降,華厳宗,法相宗,律宗,天台宗,日蓮宗,曹洞宗,臨済宗,黄檗宗,融通念仏宗,浄土宗,時宗,浄土真宗,真言宗をはじめとするいろいろな仏教の宗派が生まれた。仏教は今も昔も世界宗教ではあるが,昔のほうが,ワールド・バリュー(世界価値)として慄然と光り輝いていた。

 特に日本では法華経の人気が高い。法然,親鸞,日蓮など鎌倉仏教の祖師も法華経をひたすら信じて,信仰した。曹洞宗の祖師である道元は,「只管打坐」(ただひたすら坐禅すること)を成仏の実践法として重視したが,その教学的裏づけは法華経に立っている。