ゴールデンウィークを目前にして突如出現し、世界中の注目を集めることになった「豚インフルエンザ」。メキシコに端を発した人の感染例は、お隣の米国はもちろんのこと、遠く離れた欧州やオセアニアからも相次いで報告され、瞬く間に世界各地へと拡大した。WHO(世界保健機関)は4月29日、新型インフルエンザの警戒レベルを、世界的流行(パンデミック)の一歩手前で、複数の国で人から人への感染が進んでいる証拠があることを示す「フェーズ5」へ引き上げた。

 こうした状況は、2003年に世界中を震撼させたSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行を思い起こさせる。交通手段の発達した現代は、どこか世界の片隅で発生した感染症も、ジェット機に乗ってあっという間に世界中に拡大してしまう時代だ。これが、「21世紀は感染症の世紀」といわれるゆえんでもある。実際、SARSが問題になった当時、新型インフルエンザについても、4日で世界中に広がると試算されていた。

 それにしても、これまで新型インフルエンザの出現が警戒されていたのは、2003年以降アジアを中心に人への感染例が増えていた鳥インフルエンザ(高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1型)ではなかったのか。「なぜ、いきなり豚インフルエンザが新型インフルエンザなの?」と疑問に思っている人もいるだろう。新型インフルエンザの出現の仕組みには結構ややこしいものがあるから、それも当然だと思う。

 そもそもインフルエンザウイルスにはA型、B型、C型の3タイプがあるが、毎年流行するインフルエンザの原因となるのはA型とB型の2種類だ。一方、こうした季節性のインフルエンザとは異なり、数十年に1度の間隔で出現し、世界的な流行を引き起こす新型ウイルスの存在が知られている。こうした大流行を起こす原因となるのは、A型インフルエンザウイルスのみだ。

 実はA型インフルエンザウイルスは広い宿主域を持っていて、人だけでなく、鳥や豚、馬などにも存在する。原則として、鳥のインフルエンザウイルスが直接人に感染することはないが、1997年に香港で騒動となったH5N1型(前述の鳥インフルエンザ)は鳥から人への感染が確認された最初の例となった。これは30%もの高い死亡率が報告されたが、幸いなことに人から人への感染はなかった。当時香港政府により、150万羽もの家禽類が処分されたことを覚えている人も少なくないだろう。

 ところで、鳥のインフルエンザは、本来の宿主はニワトリではなく、カモやアヒルなどの水鳥だ。これらの水鳥では、インフルエンザはのどや肺ではなく主に腸の中で増殖している(したがって、水鳥の糞の中にはインフルエンザウイルスが含まれている)。鳥のインフルエンザはニワトリでは致死的だが、カモやアヒルでは病気を引き起こさないとされている。

 一方、先に述べたように豚にもインフルエンザは存在する。ウイルス学者の畑中正一氏の文献などによると、1918~1919年のいわゆるスペインかぜの流行のときには、米国で豚が一斉にかぜを引いたことが記録されているという。これ以来、米国の豚にもスペインかぜのウイルスがすみつくようになったようだ。人の世界ではこのウイルスは1919年以降、1930年代ころまで、ほそぼそと存在していたことが血清疫学的な面からも推測されている。ところが、1976年に突如として、米国ウィスコンシン州で豚のインフルエンザが人に感染した。そのウイルス遺伝子はなんと、かつての殺傷力は失っていたものの、スペインかぜ由来だったという。

 このように豚は人のインフルエンザに感染し、さらには鳥のインフルエンザにも感染する。豚に鳥と人のインフルエンザウイルスが同時に感染すると、豚ののどの細胞で人と鳥由来のウイルスが混ざり、遺伝子組み換えを起こすことがある。恐ろしいのは、このように2種類の異なるウイルスに同時に感染した宿主でウイルス遺伝子の組み換えが起こると、がらりと変わった新型ウイルスが出来上がることだ。このような変化は“シフト”と呼ばれており、通常の季節性インフルエンザにみられる突然変異(抗原連続変異)とはまったく異なったメカニズムのものといえる。したがって、例えば中国南部のように、人と鳥や豚などの家畜が同居しているような地域では、それまでに人が抗体をもっていないインフルエンザウイルスが突如出現することがあるという。

 国立病院機構仙台医療センター・ウイルスセンター長の西村秀一氏は、「今回の豚インフルエンザは、これまで豚で流行していたインフルエンザのウイルスが人に感染した可能性がある」としている。いずれにしても、豚インフルエンザから新型インフルエンザが出現するのは不思議ではないわけだ。

 最後に、西村氏によれば、「日本はこれから夏に向かうため、インフルエンザの大流行は考えにくいが、海外に出かける人は注意が必要だ。特にオーストラリアなど冬に向かう南半球では、流行が懸念される」という。豚肉を食べても大丈夫かという質問もよく耳にするが、豚のインフルエンザウイルスは人と同様にのどや肺で増殖するので、血液や筋肉中にウイルスはいないそうだ。「インフルエンザウイルスは酸に弱いので、仮に胃に入っても問題ない。豚肉を食べたからといって豚インフルエンザの感染を恐れる理由は1つもない」と西村氏は強調している。今のところ、国内にいる限りは、通常のインフルエンザに対する対策を心がけていれば問題はなさそうだ。

〔参考文献〕
1) 菅谷憲夫:インフルエンザ 新型ウイルスの脅威、丸善ライブラリー、2000.
2) 畑中正一:インフルエンザの流行――大流行はまだあるのか.内科2002;90(5):790-796.
3) 畑中正一:キラーウイルスの逆襲、日経BP社、2003.

瀬川 博子(せがわ ひろこ)
1982年国際基督教大学教養学部理学科卒。日本ロシュ研究所(現・中外製薬鎌倉研究所)勤務を経て、88年日経BP社に入社。雑誌「日経メディカル」編集部で長年にわたり、医学・医療分野、特に臨床記事の取材・執筆や編集を手がける。現在は日経メディカル開発編集長として、製薬企業の広報誌など医師向けの各種媒体の企画・編集を担当。NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)技術委員。