ミスを指摘されることがある。

 大きなミスをしたとき,それはショックである。例えば記事を作る仕事なら,事実誤認,ひどいミスリードなどがそうだ。ミスを防ぐため,査読の仕組みなどがあるが,それをすり抜けることはある。そういうときは,事実をしっかり確認して,確実に修正・訂正する。

 修正を終えると,ちょっと落ち着く。そしてミスを指摘してくれた人に感謝を伝える。次に,なぜ気付かなかったか,原因はなんだったのか,そんなことを考える。無知が原因なら知識を蓄えるし,環境や工程に問題があれば改善を試みる。とはいえ,忙しさをいいわけに,なにも改善しないこともある。これはよくない。

 小さなミスのとき,修正はすぐに終わる。そして,指摘してくれた人に感謝する。自分がミスをしたにもかかわらず,なぜかよい気分である。自分の成果物の品質が上がったことはうれしいし,それに協力してくれる仲間の存在も頼もしい。

 ミスが,誰からも指摘されず,そのまま放置されるのは,筆者にとって悲しいことである。いや,そのまま過去に葬り去りたい,心が痛む話もたぶんあるけれども…。

あなたを責めたいわけじゃない

 誰かのミスを指摘することもある。

 たいてい,すぐ対応してもらえる。お礼を言ってもらえると,たいへんうれしい。誰かの成果物が少しでもよくなることに貢献できたことを,ちょっとうれしく思う。

 「ごめんなさい」「申し訳ございません」「以後気を付けます」と過度に謝ってこられてしまうこともある。筆者は悲しい気持ちになる。「あぁ,私はあなたを責めたいのではないのに」「あなたの(素晴らしい)成果物のちょっとしたミスを伝えたいだけなのに」…そんな気分である。ミスが直って,状況はよくなったはず…,なのに気分は晴れない。何かおかしい。

 ミスを指摘すると,急に怒り出す人もときどきいる。指摘の仕方がまずかったのか,本当に痛いところを指摘されたからか,あるいは筆者に隠したいなにかが原因だったのか。理由はよくわからない。

 少し調べてみると,ストレスに対して,怒りで反応するのは人間の特性の一部らしい。ミスを指摘されることは,ストレスの一つであるに違いない。

 確かに私も怒ることはある。とくに「そこはポイントじゃないだろ」「おまえが言うな」の二つはアンチパターンだ。

 怒るのは問題を生みやすい。ミスを指摘されるたびに怒り出すようなことが二度三度と続くと「あの人になにか言うのはやめておこう」となることである。結果,その人はひとりぼっちだ。それは大変まずい。

ネガとポジをセットでまめに

 たいてい,ネガティブな指摘を伝えるときは,意識下にあるポジティブな話も混ぜるようにしている。さらに“ポジティブ先出し”にする。「○○がいいと思う,××が面白かった,さて…」というポジティブな枕詞を置いてから,ネガティブな指摘を伝える。

 すると,怒り出してしまうようなことは,ほとんどない。過度に謝罪の言葉や自省の態度が見えることもない。相手も自分も,とても気分がよい。少なくとも,自分のミスを指摘されるときはそうである。ネガティブばっかり立て続けに来ると,だんだん不愉快になる。

 そもそも,誰かの成果物にネガティブなことを指摘するとき,指摘者にとってのゴールは,その成果物の品質を上げることである。ならば,そのメッセージでは,「成果物の価値」と「問題点」の両方を伝えるのは当たり前だろう。成果物に価値があることを当然と考え,コミュニケーションにおいて省略すると,相手に少しずつストレスが蓄積される。ネガティブを蓄積させて,あとでポジティブを大量に与えてストレスを解放させるようなやり方は,現代にはふさわしくないように思う。

 ポジティブな評価も,ネガティブな評価も,セットでマメに。なんだか現代っぽいではないか。そうありたい。

 そう書きつつ,ついイラッときて,きついことだけを言ってしまうときがあります。傲慢なことをいいっぱなしのときもあります。ごめんなさい。もう二度としません。いやもう二度くらいは…。