「組織は消えたが技術は残った」 アクセラテクノロジ 進藤 達也 社長

 大学は早稲田大学理工学部の電子通信学科で,大石研究室でした。研究は数学に近い分野。先生がコンピュータを使った不動点定理の研究をされていて,その計算に並列処理が効くという話がありました。そこで「6809」とか「6802」とか,68系の8ビット・マイクロプロセッサ(*1)を4個くらい並列に並べて実験していました。この辺りから並列処理に興味を持って,はまっていきましたね。

 学部卒業後,1983年に武蔵中原(神奈川県川崎市)にある富士通研究所に入り,スーパーコンピュータ(スパコン)や専用計算機を研究していました。当時は今と違っていろいろなコンピュータのアーキテクチャがあり,実際自分で作ってみるチャンスもあった面白い時代。マイクロプロセッサもインテルがあって,モトローラがあって,RISCがあった。RISC対CISCの論争(*2)が起こるのがもう少し後です。

 この頃,スパコンや専用計算機は数値解析用途がほとんど。私たちはもっと違った用途に使えないかと考えて,「VLSI CAD」を研究しました。これはVLSI(Very Large Scale Integration)を設計するためのCAD(Computer Aided Design)で,論理シミュレーションなども行います。専用ハードウエアを設計したりして楽しかったですね。

スタンフォードで受けた“起業の刺激”

 90年に会社からスタンフォード大学に留学させてもらい,1年半いました。住んでいたのはマウンテン・ビュー。これが大きな転機です。この経験が無ければ起業することは無かったと思います。

 スタンフォードへ行ったのは並列化コンパイラの研究が目的だったのですが,それ以上に刺激を受けたのは「みんな,会社を作っちゃうんだ」ということ。当時,指導教授としてお世話になったのはその後学長になられたジョン・ヘネシー先生(*3)とコンパイラ研究のモニカ・ラム先生のお二人。びっくりしたのはヘネシー先生がミップス社を立ち上げていたこと。「え,大学の先生が会社作っちゃうの」と。そういう先生は早稲田にはいなかったですからね,当時は。

 スタンフォードでは助教授クラスの先生もサバティカル(研究休暇)を取って会社を作る。あの頃スタンフォードから出た会社としてはメモリーのランバス社もありますね。学生さんも卒業と同時にスタートアップ企業のメンバーになったりする。「いつかは自分も会社を作って独立してみたい」という考えが体に染み込みましたね。

“武士の商法”で失敗

アクセラテクノロジ 進藤 達也 社長(写真:厚川 千恵子)
アクセラテクノロジ 進藤 達也 社長(写真:厚川 千恵子)
 留学から富士通へ戻ってしばらくすると,上司が「研究所で研究だけやっているのではなくて,事業部門を作ってビジネスに乗り出そう」というので,誘われてHPC(ハイ・パフォーマンス・コンピューテイング)本部の設立に参加しました。HPC本部は富士通の「VPシリーズ」(*4)のメンバーと,研究所の並列化のメンバーが一緒になって作った組織。ところが残念なことに4年くらいで潰れちゃう。

 “武士の商売”というのですかね。もともと研究所にいて商売を知らない人間が「良い技術を持っていれば売れる」と思っていたんです。ただ,HPC本部のころの最後のトライアルで始めたのが検索エンジン。インターネットの利用が本格的になってきたので,「大量のデータを高速に検索する」という用途にスパコンや並列処理が向くだろうと思いました。それで最後のあがきで取り組んだのですけど,HPC本部が無くなってしまった。

 「せっかくの検索技術をなんとか生かす道はないかな」と思っていたときに,富士通社内のベンチャー制度があったのでそこに乗って起業したのです。