健康食品メーカーD社は,ここ数年で急成長を遂げた。それを牽引してきたのが安藤富雄社長(仮名,57歳)。多角化経営を推し進め,今年は既存店3店舗に加えて直営店20店舗を出店する。それに伴い,たった1人のシステム担当者である小笠原正幸氏(仮名,37歳)は,ベンダーとともに各店舗へのPOSシステムの導入を進めていた。

 利用部門からは,社長がヘッドハンティングした店舗販売部長の志村恭一郎氏(仮名,50歳)がプロジェクトに参加。志村氏は店舗経営の経験が豊富で,ITの重要性も認識している。「この部長とならプロジェクトはうまくいく」。小笠原氏はそう確信した。実際,6カ月間の短納期プロジェクトだったが,予定通り,2カ月半で7割程度の仕様を固めた。「あと半月で残りの仕様を詰め,ベンダーに開発してもらうだけだ」。小笠原氏は自信を見せた。

 ところが,事態は急変した。安藤社長の経営方針と志村部長の意見が合わず,志村部長は退社に追い込まれた。小笠原氏は困惑した。稼働開始まであと3カ月半。店舗のオープンに合わせているため,遅らせることはできない。

 小笠原氏は社長の元を訪れた。「利用部門の方がプロジェクトに参加しなければきちんとしたシステムは作れません」。だが,次々に新事業を立ち上げる同社は慢性的に人手不足。システムに対して無関心な社長は「システム担当は君なんだから,きちんとやってくれよ」と言う。「それじゃ無理なんです」と食い下がると,安藤社長はしばらく考え内線電話をかけた。間もなく現れたのは,店舗事業とは無関係の,生産管理部の木村繁課長(仮名,40歳)。社長は,木村課長にプロジェクトに参加するよう指示を出した。

 木村課長の参加で,プロジェクトの進捗はかえって鈍った。2週間で仕様を確定しなければならないのに,多忙な木村課長はなかなか会議に出てくれない。出席しても「俺はよく分からないから」と意見を言わない。焦った小笠原氏は,前任者の志村部長が残した仕様やメモを頼りに残りの仕様を完成させ,木村課長に承認してもらった。

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 何とか完成に漕ぎ着けたPOSシステムは,東京と大阪の旗艦店舗2店のオープンと同時に稼働開始した。ところが,オープンして10日目,思わぬ障害が発生した。POSシステムのバーコード・リーダーで,商品のバーコードを読み取れなくなった。たちまちレジの前に長い行列ができた。

 東京店の店長から,小笠原氏の元に連絡が入った。すぐさまベンダーの担当者を呼び,店舗に向かった。原因はすぐに判明した。POSシステムのメモリーがいっぱいになっていたのだ。とりあえずメモリーを増設することで急場をしのいだ。

 だが,たった10日間でメモリーがいっぱいになることは考えられなかった。旗艦店舗とはいえ,3カ月分の販売データだけを記録する仕様だったからだ。原因は,仕様書の隅に書いてあった。志村部長は,店頭で顧客がどの商品を同時に買ったかという「バスケット分析」に必要な情報を,基本情報と一緒に記録しようとしたのだ。その仕様でプログラムを開発したため,10日間で容量を超えてしまった。

 D社ではその後,POSシステムに絡んで様々な障害が発生した。店舗販売部の利用者からは,必要な機能が無いというクレームも噴出した。その結果,完成したシステムは,改めて再構築することを余儀なくされた。

 問題なのは,システム担当者と利用者の間に,仕様を検討する場がほとんどなかったこと。唯一のパイプ役だった志村部長の退社で,それが完全に断たれた。小笠原氏が「利用者を参加させてほしい」と訴えても,安藤社長は真剣に聞き入れなかった。このような考えを持つ経営者は少なくない。こうなると,システム担当者と利用者の間に「構造的な隙間」ができてしまう。

 小笠原氏は「システム開発に利用者が加わる重要性」を経営者の視点で,もっと訴えるべきだった。社長の協力を得られなくても,利用者に直接会って,仕様についてヒアリングしてもよかった。しかし,納期優先で進めた小笠原氏は,隙間を埋める努力を怠った。“利用者不在”では,欠陥システムが再び作られる。