2002年4月,プログラマの福山道雄さん(仮名)は,新しい技術や開発手法の導入に消極的だった中堅ソフトハウスでの仕事に限界を感じ,転職を決意した。転職先として選んだのは,当時社員4人のソフトハウスM社。以前に勤めていた中堅システム・インテグレータの先輩社員B氏が社長として立ち上げた会社である。

 B社長とは特に親しくなかったが,福山さんにとってM社の仕事は魅力的だった。ある業務パッケージ・ソフトのメーカーから開発の請負業務が定常的に入っており,その仕事を通じてアジャイル開発を実践できるということだったからだ。実際に希望がかない,福山さんはM社で,プログラマとしての成長を実感しながら仕事に取り組んだ。エースのプログラマとして社内で頼りにされるのに,時間はかからなかった。

新人の教育指導で多忙を極める

 しかし1年後,事態が暗転する。きっかけは,B社長が拡大路線を打ち出したことだった。「社員を10人に増やし,利益1億円を目指す」。社長の意気込みが先行する経営計画に不安を感じながらも,福山さんは従うしかなかった。

 福山さんが強い危機感を覚えたのは,新入社員5人の顔ぶれを見たときだった。中途採用が不調で,全員が新卒採用。一からの教育指導が必要だった。

 教育指導は初めこそ,社員5人で分担したが,まもなく福山さん1人の仕事になった。社員のうち1人は過労がたたって体調を崩していたし,社長を含めほかの3人は教育指導に熱心なタイプではなかった。自然と,新人5人は福山さんを頼った。

 それからの福山さんは,以前に増して多忙を極めた。会社が受注した仕事量は前年比でほぼ2倍。それを新人とともに,こなさなければならない。福山さんは平日の大半を新人の教育指導に忙殺され,自らの仕事は深夜や土日に片付けるという状態が続いた。

赤字の責任を1人で負わされる

 このころ,福山さんはB社長からたびたび叱責を受けるようになっていた。「オマエも新人5人も残業が多すぎるんだよ。これじゃ,この案件は赤字だ。何とかしろよ!」。

 強引な拡大路線に早くもほころびが生じ,社長がいらついているのは分かった。それでも,この言葉には我慢ならなかった。仕事に不慣れな新人の生産性が低いのは当たり前。教育指導を一手に引き受ける福山さんも含めて,残業しなければ追いつかない。それに,福山さんは毎週土日の自宅作業を自発的にサービス残業にしていた。

 しかも『そもそも赤字の原因は甘い見積もりにある』と福山さんは考えていた。B社長は受注を取るため,工数を少なく見積もっていた。3人日で見積もった画面の開発工数が1人月に膨れ上がることもあった。それを,福山さん1人のせいにされてはたまらない。

 土日もなく早朝から深夜まで働き詰め。社長からねぎらいの言葉はなく,赤字の責任を押しつけられ責められる日々。それでも福山さんは,慕ってくる新人を前に「会社を辞めよう」とは考えなかった。30代半ばの年齢も考えて最後の職場にする覚悟を決めていた。しかし,心と身体が持たなかった。

 十二指腸潰瘍を発症し,さらに不眠症に悩まされた。うつ病の症状が表れたこともあり,限界だと思った福山さんは2003年12月,医者の薦めに従い3カ月の休職を願い出た。それに対してB社長はこう言い放った。「今休めないことぐらい分かるだろう。この案件が終わるまで無理だ」。福山さんには反論する気力も残っていなかった。

 さらに3カ月にわたって仕事を続けたことで,福山さんは重いうつ病を発症した。そして休職。その後,保険料の負担などをめぐってB社長ともめたことがきっかけで,自主退職した。外出して人と話せるまでに回復したのは,最近のことだ。生活のため仕事に就かなければならないが,再びプログラマとして働く気力はもう残っていない。

福山 道雄さん(仮名)
福山 道雄さん(仮名) プログラマ(38歳)。社員10人のソフトハウスに勤めていたとき,エースとして活躍。しかしあるとき,社長が甘く見積もった予算の案件を任されたうえに,コスト超過の全責任を押し付けられる。若手5人の教育を1人で担当していたこともあり,疲労とストレスが蓄積。うつ病を発症して退社し,現在も療養中