先の見えない不安とともに2009年の幕が開いてから,はや1カ月。筆者が主にかかわっている企業向けIT(エンタープライズ)の分野にも,暗い空気がそこかしこに漂っている。

 その一方で,2000年代すなわち「ゼロ年代」が終わりを告げようしている。2010年代すなわち「イチゼロ年代」はすぐそこまで迫っている。

 イチゼロ年代に入っても,エンタープライズ分野では「業績不振」「下方修正」「投資抑制」といったネガティブなキーワードが並ぶのだろうか。状況はさらに悪化しているかもしれない。でも,せっかく新たな10年を迎えるのに,それだと辛いし,ワクワクしない。業界としての未来はますます危うくなってしまう。

 となると,この状況を変える何かが必要ということになる。どうすればいいのだろう? 「とにかく景気が戻らないと」「結局は米国次第」「今こそ顧客が真に望むソリューションの提供が大切」など,さまざまな意見があると思う。

 ここでは議論のたたき台として,一つの仮説を示してみたい。それは

“あずまん”が登場すると,状況がぐっと変わる

というものだ。

ムーブメントには核となる人材がいる

 “あずまん”とは何か? 一部の人はご存じかもしれないが,2ちゃんねるなどで,哲学者・批評家の東浩紀氏を指すときに使われる言葉だ。ここでは東氏個人のことではなく,東氏のような存在を指す象徴だと,とらえてほしい。

 それなりに年齢のいった方なら,1980年代の「ニューアカ(ニューアカデミズム)ブーム」を覚えているかもしれない。20代で「構造と力」「逃走論」といった書籍を出した浅田彰氏(現在は京都造形芸術大学大学院長)を筆頭に,哲学や経済,社会,科学,サブカルチャーを含む芸術全般を横断的に扱う批評活動が話題を集めた。

 いま批評の世界が,ニューアカブームをほうふつとさせる勢いで活気づいていることをご存じだろうか。その中心的存在が東氏だ。文学・ゲームやライノベ(ライトノベル)などのサブカルチャー・哲学・社会・ITをまたがる批評を展開する一方,思想誌「思想地図」を創刊。同氏のブログによれば,第1号は初版1万部ですぐに増刷がかかったという。

 優勝者に初版1万部のデビューを約束する若手批評家育成プログラム「ゼロアカ道場」というユニークな試みも展開している。老舗の文芸誌「新潮」では小説を執筆し,「早稲田文学」が昨年主催した10時間公開シンポジウムでパネラーとしてフルに参加するなど,非常にアグレッシブに活動している。

 筆者は日経コンピュータにいたときに,25年先の情報システムを考える特集企画の一環で,東氏に取材したことがある。あるシンポジウムで東氏が話していた内容が非常に興味深かったからだ(その内容については,東氏が書いた「情報自由論」を参照)。風邪をひいて体調が今ひとつにもかかわらず,人文系の知識に乏しい筆者に対して丁寧に説明してくれたのが印象的だった。

 その東氏の周囲も熱気を帯びている。グーグルで「ゼロ年代」というキーワードで検索すると,かなり上位に表示されるのは「ゼロ年代の想像力」という書籍である。著者の宇野常寛氏は,東氏と並び注目を集める若手批評家だ。「PLANETS」という領域横断的な批評誌の編集長も務めている。「新潮」で批評を執筆し,「早稲田文学」主催の10時間公開シンポジウムでもパネラーとして参加している。

 たかが批評という狭い世界の話ではないか。1万部売れたことが,どれほどのものか。こんな意見が出てくるかもしれない。しかし両氏の書籍やWebでのコメント,さらに「思想地図」「PLANETS」,批評家である佐々木敦氏の「エクス・ポ」,最近の「新潮」「早稲田文学」といった雑誌や,東氏,宇野氏,さらに浅田氏らが参加した公開シンポジウムに1000人以上が詰めかけるという事実を目の当たりにする限り,いま批評の世界にムーブメントと呼べるような動きが起こっているのは確かだろう。

 もちろん,一人の力だけでムーブメントは起こらない。だが,だれか中心的な存在がないとムーブメントと呼べる現象に発展しないのも,また事実である。

 もしも浅田氏がいなかったら,あるいは「構造と力」を書かなかったら,ニューアカブームは存在しなかったに違いない。もっと以前のヌーベルバーグと呼ばれる映画界の動きは,ジャン=リュック・ゴダール氏がいて「勝手にしやがれ」という作品を作ったからこそ,今も人の心に残っていると筆者は思う。1970年代にロックミュージックの世界で一大ムーブメントを起こしたパンク/ニューウェーブは,セックス・ピストルズがいたからこそ“伝説”になったのである。

 東氏の活動に対してはいろんなことを言う人がいる。“あずまん”という言葉も,どちらかというとネガティブな意味で使われることが多い。それでも,いま批評の世界で起こっているムーブメントは,中心に東氏がいるからこそ生じているのは間違いない。