企業におけるシステム投資において,保守開発の比率が高まっている。そうしたなか,相次ぐ新規開発で情報化を牽引してきたシステム部門の存在価値が,ぐらつき始めている。

S社は,オフィスや店舗といった賃貸物件を管理・仲介する不動産業者である。情報化に積極的な同社では,業務のほとんどがすでにシステム化されている。そのS社で2006年7月,新たなシステム案件が持ち上がった。「物件情報システム」の増強計画である。
5年前に稼働させたこのシステムは,同社が扱う物件の広さや間取りといった情報をデータベース化したもの。主に営業担当者が,顧客に物件を紹介する際に利用している。
この物件情報システムに対して最近,ユーザー部門から不満の声が上がっていた。「レスポンスが遅い」「キーワード検索の使い勝手が悪い」というのだ。物件情報を入力する管理部門からも,「取り扱い物件が急増中で,このままでは容量が不足する」という不安が寄せられていた。
今回の増強計画は,こうした問題を一掃するための措置である。責任者には,システム室のB係長(32歳)が任命された。Bさんはさっそく,営業部門と管理部門から担当者を2人ずつ集めて検討会を開催した。
ユーザー部門は言いたい放題
検討会は,初回から荒れ模様だった。参加者は「なんでこんな会議が必要なんだ。ただのリニューアルだろう?」「本業で忙しいのに,こんなことに時間を取られたくないよ」と,口々に文句を言った。そんな参加者を,Bさんは「皆さんが使いやすいシステムを作るためですから」と,懸命になだめた。
しかし,営業担当者の次の一言にはカチンと来た。「システム室はいいよ。ユーザー部門に企画させて,実際の開発や保守業務はベンダー任せだもんな」。管理担当者も,「まったくだよ」とそれに同調した。
Bさんは「またか」とうんざりした。最近,こんな風にシステム室を批判する声がよく耳に入ってくるのだ。ユーザー部門の勝手な言い草に腹が立ったが,Bさんは「ここでけんかしても仕方ない」と思い,聞き流すことにした。
検討会は,その後も波乱続きだった。システム室に対する悪口では意見が一致した参加者たちだが,肝心のシステム増強計画に対する意識はバラバラ。それぞれの部門の代表者という自覚がなく,個人的な都合や要望ばかり主張する。会議は毎回紛糾し,そのたびにBさんは神経をすり減らした。「これ以上,遅れるようであれば,増強案そのものが白紙撤回に追い込まれる」。Bさんは必死で参加者を説得し,意見の食い違いを調整し続けた。
Bさんの我慢と努力が実り,「データベースのレスポンス・スピードを2倍に速める」「キーワード検索を,全文検索に切り替える」「データベース容量を3倍に増やす」といった具体的な増強案が固まったのは,予定より2週間遅れの8月末だった。
企画案が通らず“逆ギレ”
数日後,Bさんは徹夜で作成したシステム増強案を,上司であるTシステム室長に手渡した。9月半ばの経営会議に提出するには,ぎりぎりのタイミングだった。
ところが,Bさんの計画案に目を通したT室長はその場で首を横に振り,「これでは経営会議は通らない」と,やり直しを命じた。Bさんはぎょっとして「なぜでしょうか?」と尋ねた。「この計画案では,なぜシステム増強が必要なのか分からない。それに,費用対効果も明確になっていない」。
さんざん苦労して作成した案を一蹴されて,Bさんは黙っていられなかった。「本件は,既存システムをベースにしています。保守開発する部分だけを切り出して,その効果を定量化するのは難しいんです」と反論した。だが,T室長は「どんな投資案件だって,その必要性が理解できなければ経営者は承認しない」と繰り返した。
Bさんは思わず,「みんな勝手なことばかり言う。もう,これ以上の知恵は出てきません!」と声を震わせた。T室長は,「どうしたんだ。君らしくないぞ」と眉を上げた。
Bさんは,「ユーザー部門からは突き上げられ,経営陣にはむちゃを言われる。やってられませんよ!」と,こぶしを握り締めた。そして,「今日はこれで失礼します」と言い残し,オフィスを出ていってしまった。
その翌朝。「昨日はすみませんでした」。BさんはT室長に謝った。「つい,感情的になってしまいました」。T室長はニヤリと笑って「検討会で,相当やられたみたいだな」と応じた。Bさんは,黙ってうつむいた。
T室長は,今度は真顔でBさんに語りかけた。「なあ,B君。我々は今,システムの投資対効果を考えるための基本ロジックを見直すべき時期に来ていると思うんだ」。Bさんは,「基本ロジック?」と言って顔を上げた。
T室長は,説明を始めた。「新規開発が中心だった従来は,業務効率化による生産性向上やコスト削減といった側面からシステム投資を評価していた。一方,保守開発はそうはいかない」。その通りだ。Bさんは強くうなずいた。
「だが,だからと言って,今回のような保守開発を凍結させるわけにはいかない。そうだよな?」。Bさんは,再度うなずいた。当然だ。そんなことをしたら,システムはいずれパンクし,業務が止まってしまう。
「そこで,だ」。T室長の口調が熱を帯びた。「既存システムの機能を維持・向上させるための保守開発がもたらすメリットをはっきり示せるような,新しい物差しが必要だと思わないか?」。
Bさんは,はっとした。システム室の役割が,大きく変わろうとしている。そのことには,うすうす気づいていた。だが,自分がそれにどう立ち向かうかまでは,考えたことがなかった。環境変化による逆風を,うらめしく思っていただけだった。
「システム投資の新たな方向性を指し示すのは,私たちだ」。自分の使命を悟ったBさんは,「物件情報システムの件,基本ロジックから見直します」と宣言した。T室長は「頼むぞ」と,Bさんの肩をたたいた。
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