筆者はWebが大好きだ。はじめてのブラウザはNCSA Mosaic,はじめてのWebサーバーはCERN httpdだった。Sun Microsystems製の大きなCRTモニターに,NASAのWebサーバーからダウンロードしたJPEG画像が表示されるのを見て興奮した。自己紹介やダジャレといったたわいもないホームページを,大文字のタグで書きながら作った。1994年のことである。これは未来があると思った。

 その後Webは,だんだん大きな世界になり,どんどん面白くなった。1994年の筆者が感じた可能性よりもずっと,である。いわゆる利便性もそうだが,筆者が強調したいのは知的な刺激を受ける機会が増えたことである。会社でも家でもノートPCを開いては“未読消化”といいながらテキストをむさぼり読み,画像を閲覧し,動画を視聴して,刺激を受け続ける。

 筆者は編集者でもある。そもそも編集者とは,なにか読むものが無くなるとひからびてしまうような生き物である。そこに,無限に読み物を供給してくれる感じがするWebが出てきた。実際には有限であるが,筆者が死ぬまでに読める文章量はすでに超えているだろう。英語がそこそこ読めるようになってからは10倍以上に増えた感じもする。音楽もあれば動画もある。インターネット上の面白いコンテンツは,この先まだまだ増え続ける。うれしいことである。

正義と過ち

 この喜びを感じているのは筆者だけではないだろう。現在では多くの人が,インターネットに有益なコンテンツが日々拡充されていくと確信しているはずだ。より正確に書けば,各々が価値があると信じるコンテンツが,日々増えていく。このことを,ここでは“インターネットの正義”と呼びたい。

 インターネットの正義は,プログラムや,ユーザーを巻き込んだシステムにより加速していく。筆者の印象では,Googleのような検索エンジンはもちろん,はてなブックマークもニコニコ動画も,そのほかたくさんのシステムも,そのために創られているように見える。だれもが,便利で快適で面白くて,価値があるインターネットになることを信じている。

 この正義に反していると感じたとき,悲しくなることがある。例えばスパムブログと呼ばれる自動生成された意味のないコンテンツに遭遇したときである。あるいは明らかな事実誤認があってミスリードしている記事を見たときもそうだ。このITproでも,例えば古い雑誌の記事を再掲載したにもかかわらず,「新着」として扱い,再掲載であることを示す表示が記事の下部に小さく,誤解を招くという事態があった。

 いずれも問題として認識している。これらの問題,すなわちコンテンツが正しく伝わらない状態を見ると,怒りよりも悲しい気持ちを感じる。編集者は,著者と読者のコミュニケーションを成立させることを喜びとする生き物でもある。

批判は期待

 これらの過ちは,コメント,トラックバック,ブックマーク・コメントなどの仕組みを通して,さまざまな立場から指摘される。コンテンツを作る立場からすれば宝の山だ。自分の仕事,あるいは他人の仕事の,なにがまずくて,なにがミスだったのかをすぐに知ることができる。

 まあ,とくに「炎上」と呼ばれるような状況では,批判が目的なだけのノイズに見えるときもある。それでも注意深く観察すると,コンテンツに対する不満点,対応のまずさ,怒りを感じているポイントなど,いろいろとわかるところがある。レビューに慣れているプログラマならよく知っている通り,指摘してもらえることの価値は高い。

 筆者は思う。これらの指摘に共通するのは,批判者が抱くコンテンツの作り手への期待である。くだいていえば「こうあってほしい」「こういうことしてほしい」だ。期待に応えられないどころか,先に述べた“インターネットの正義”に対する裏切りになっていると,批判は止まらない。組織の規模,ブランド,状況などによって多少バイアスがあったり係数が違ったりはするが,おおむね同様の構造に見える。

 価値観は人それぞれなので,個々の批判を精査すると,勝手な期待や無茶にみえることもある。それでも,多くの場合はまっとうな期待に思える。いくらか抽象化すれば,本心から「そうありたいかも」と思っていたことに一致する。Webで表面化しているのはごく一部かもしれないが,仮説が裏付けされる貴重な瞬間といえる。