先週,ある地方で,ものづくり系中小企業の経営者何人かとお話しする機会があった。「9月以降,受注が急減した」と口を揃える。とりわけ,特定の限られた顧客に依存している中小企業が苦境に陥っているようだ。背景には,例えば,ある大手自動車メーカーとその系列の1次部品メーカーが,資本関係があったり,取り引き関係が深かったりする,お膝元のサプライヤーに仕事を集中させ始めたことがあるという。その結果,同企業グループ関連の仕事をしている7000社程度ある中小加工メーカーのうち,「年内(年度内ではない)にそのうち2000社が倒産するという見方さえ出ている」,とある機械加工メーカーの社長は語った。

 自動車メーカーと資本関係もなく,取り引き関係も薄く,お膝元にもいない中小企業が生き残るには,「技術力」をアピールすることが重要になる。ただし,技術力が高いと思っていても安閑としていられないという。「中小加工メーカーが持っている『技術』といっても,自動車メーカーや1次部品メーカーがいざとなったら自分で造れるレベルのものも多い」のだそうだ。

 ある社長は,「自動車だけに頼るのではなく,一般機械やエネルギー関係など広い業種の顧客を開拓しなければいけない」と語る。さらには,「ものづくりだけに頼っていてもダメかもしれない。例えば農業とか漁業とか・・・」という声も聞かれた。

「焼き鳥屋をやるぞ!」

 確かに,以前のコラムで紹介したように,「元気」な中小企業の条件とは,「『下請け仕事』と『独自開発』に加えて,漫画の『浮浪雲』みたいに,『時の流れ』に身を任せて軽々と生きられるかどうか」だという見方がある。コンサルティング会社であるシステム・インテグレーション社長の多喜義彦氏が語ったことだが,「時の流れ」とは,環境の変化に合わせて本業以外のビジネスに軽々と転進することを指す。同氏は,その一例として,「自動車メーカーからはいつ仕事を切られるか分からない。そうなったら,皆で焼き鳥屋をやるぞ」と言っている社長の話をしてくれた。

 必死に生き残ろうとしている中小企業に対して,「軽々と」という言葉は失礼かもしれないが,本業以外でも色々な可能性があると思うだけでも,気が楽になる効果はあるのではないだろうか。『日経ビジネス』2008年11月3日号の特集「復活企業に学ぶ」では,事業再生に詳しい弁護士がこの9月にある地方都市を訪れたところ,倒産して負った個人補償を生命保険で埋めるために自殺するオーナーが相次いでいるという話を聞いたというエピソードを紹介している。「景気後退で地方の中小企業は疲弊している。でも,思い切った事業転換など,他に打つ手もあったろうに・・・」とこの弁護士は語ったという(p.38)。

会社に「目的」はあるのか

 多喜氏が言う「時の流れ」とは,本業へのこだわりから自由になることを指す。もちろん,本業の技術分野で事業が順調ならば問題はないが,本業がうまくいかなくなっても,本業の技術分野にこだわることは問題だと多喜氏は見る。コラムを読み返して改めて考えたのは,本業へのこだわりは,本業としての「技術」を「目的」化とすることからくるのではないか,ということだ。同氏は,ある技術分野でナンバーワンになるといったことは,会社としての「目的」ではなく,「手段」だという。同氏は,会社は「従業員を食わせる」ためにあるという。しいて言えばこれが目的のようだ。このほか,会社の目的といえば,「利益を出すこと」や「株主に配当すること」などが思いつくが,これらは会社の「目的」なのだろうか。会社の「目的」とは何なのだろうか・・・。

 と,こんなことを考えていて,思い出したのが,前回のコラムに続いて生物学づいていて恐縮だが,免疫学者の多田富雄氏が書いた『生命の意味論』という本の中にある一節である。同氏は,生命のシステムを人工的なシステムを超えたものだと見て「超(スーパー)システム」と命名し,その特徴の一つが,「目的がない」ことだと指摘する。多田氏はこう書く。

 システムというのは,ことに人口的なシステムというのは,特定の目的を持って構成されるというのが条件である。その目的を,いかに合理的かつ能率的に達成できるかというのが,システムの構成原理である。(中略)ところが超システムに目的があるかというと,ないのではないかと私は考えている。(中略)単純に考えれば,種の維持とか個体の生存とかを目的と考えてもよいのかもしれない。しかし,DNAの総体であるゲノムで決定される種や,種の保存の実働体である個体の生命の維持という目的のためには,こんなに複雑で冗長なシステムを作り出す必要があっただろうか。(中略)超システムは,直接の目的を持たないシステムとして発達してきた。システム自体が自己目的化しているシステム。超システムは,超システム自身の内部的な目的で,新たな要素を追加し,複雑化させながら進化してきた。(p.34~35)

「単一性」と「偶然性」

 超システムは,あるパターンをもって成長する。筆者が理解したところによると,そのパターンを表す重要なキーワードは,「単一性」と「偶然性」である。出発点は単一なもの(同書の中では「なにものでもないもの」と表現することが多い)であり,まずその複製から始まる。複製している過程で,様々な偶然が襲って,多様化し,複雑化していく。出発となる「単一なもの」は受精卵であったり,免疫細胞の幹細胞であったりする。

 受精卵の場合,一卵性双生児を考えると分かりやすい。同じゲノムを持つ一卵性双生児であっても,成長と共に外見上も性格的にも差が出てきて,各々個性を持つに至るのはなぜなのか。その理由を多田氏は,「受精卵というなにものでもないものから,個体という存在が作り出される過程なのである。そこには,遺伝的な決定のほかに,重力とか温度とか,外界の化学物質の濃度,細胞の密着度などの偶然の要素が入り込む。遺伝子が完全に同一である一卵性双生児でもかなりの外見上の差が認められるのは,そういう偶然が働いたためである」と説明する(p.22)。

 外界の侵入者から身を守る様々な種類の免疫細胞の場合,最初は,幹細胞という「なにものでもない」(p.27)ものが,様々なリンパ球や血小板に分化していく。大元の肝細胞はもちろん遺伝的に規定されているが,どの肝細胞がどの細胞になるかは,肝細胞が置かれていた環境やサイトカイン(細胞が分泌するタンパク質でそれに対するレセプターを持つ細胞に働いて,免疫反応,増殖,分化などを行う)があるかないかなど,「偶然」で決まるという。