キリスト教には環境問題を引き起こした重大な嫌疑がかけられている。聖書の中に、はなはだ問題がある個所があるからである。長いが全文を紹介してみたい。

 「神は彼らを祝福して言われた。『生めよ、ふえよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたにあたえる。これはあなたがたの食物になるのであろう』」

 天地創造が書かれている、かの『創世記』第1章28編の1節である。この部分が、1968年、環境思想上、大論争を引き起こすきっかけとなった。告発者は米カリフォルニア大学の教授、中世農業技術史が専門でルネサンス研究家としても名高いリン・ホワイトJrである。

 ホワイトは『機械と神』という著作の中で、今日の環境問題の起源を歴史的・思想的に説き起こし、大本にあるのがユダヤ・キリスト教だと述べた。といってもキリスト教そのものを糾弾したのではない。ホワイトは今日の環境問題は科学や技術の無制限な研究・開発によってもたらされたと指摘。それでは何が根拠となって無制限な科学と技術の発達がもたらされたのかと問い、その起源が現在をはるかにさかのぼることを解き明かしたのである。

 近代科学は11世紀にギリシャ的な思考とキリスト教の教義とがうまく融合したことで発達し始めた。だが科学技術が発達するにしても、なぜ人間は特別な存在であり、自然を破壊してもいいのだろうか? 

 人間は神が泥をこねて創り上げた存在である。しかし人間は単なる自然の一部でもない。神に似せて作られたからである。人間はすべての動物に名前をつけ、動物を支配した。神は人間の利益と支配のために動植物を、否、あらゆる物的な創造物を準備したのである。それを象徴するのが先に掲げた『創世記』の言葉で、これを大義名分に人間の自然支配は成立した。人間が自然を支配することは神の意志に沿うことなのである。

 自然は人間と分離され、物事はすべて人間への有益性から判断されることになった。万物は人間から見て役立つかどうかで存在意義が決定するという人間中心主義の自然観。ここから、自然を酷使し資源を浪費させる科学技術の発達が始まった。科学技術の無限の発達は、人間に役立つ限りは善であり、自然を破壊することも容認される。

 キリスト教を批判したのだから、「ホワイトは反キリスト教なのか?」「何教の信者なのか?」と疑問に思われる方もいるかもしれないが、実は敬虔なキリスト教徒であった。だからこそ、かえってホワイトの指摘には、単なる勧善懲悪の構図ではない奥深さが潜んでいる。

 ホワイトの著書への反響はすさまじいものがあった。宗教的な態度が自然環境に影響をもたらすというホワイトの考え方に、学者と神学者はおおむね賛同したが、キリスト教徒と宗教家は猛反発した。机に山積みされた抗議の手紙を眺めながら、ホワイトは「私は科学者を批判したはずなのに」と苦笑したという。