2008年も残り2カ月少々。日経BP社のIT系雑誌の名物編集長3人が,2008年に話題になったトピックと2009年への展望を語った。第2回はSaaS/クラウド・コンピューティングの台頭と,企業情報システムに与えるインパクトの大きさを検証する。

司会の林哲史(ITpro発行人,写真左),三輪芳久(ITpro編集長,写真左から2番目)<BR>,桔梗原富夫(日経コンピュータ編集長,写真左から3番目),松本敏明(日経コミュニケーション編集長,写真左から4番目)
・司会の林哲史(ITpro発行人,写真左)
・三輪芳久(ITpro編集長,写真左から2番目)
・桔梗原富夫(日経コンピュータ編集長,写真左から3番目)
・松本敏明(日経コミュニケーション編集長,写真左から4番目)
記事協力:藤本健 写真:新関雅士

三輪:iPhone以外で2008年にITproの大きな話題となったのは,マイクロソフトによるヤフー買収騒動でしょう。今年の1月30日から2月1日に第1回のITpro EXPO展示会を開催しましたが,それがちょうど終わったタイミングでニュースが飛び込んできました。大急ぎで特番サイトを作って翌週には公開し,読者から大きな反響を得ました。

日経コンピュータの桔梗原編集長
日経コンピュータの桔梗原編集長

桔梗原:マイクロソフトはグーグルを追撃するためにヤフー買収提案に走ったわけですが,そのような時期にビル・ゲイツ氏が経営の一線を退いたことは印象的でした。日経コンピュータでは6月に「さらばビル・ゲイツ」という特集を組みました。特集ではビル・ゲイツ氏の引退をひとつの時代が終わる象徴ととらえ,SaaSの時代,クラウド・コンピューティングの時代が到来しつつあることを指摘しました。ハードウエアを自前で用意し,そこでソフトウエアを開発・運用する時代から,サービスの時代に変わるんだ,と。クラウド・コンピューティングでは,インフラ,プラットフォーム,アプリケーションがネットワーク経由のサービスとして提供されます。そうなれば,システムの作り方,使い方は従来とは大きく変わってきます。これは企業に大きなインパクトを与えるでしょう。

:それは興味深いテーマですね。しかし,企業は本当に大事な情報を外部へ出せるんでしょうか? 企業の基幹システムがクラウド・コンピューティングへ移行するとしたら,これまで経験したことのない大きな変化になります。

三輪:米Amazon.comはクラウド・コンピューティングの構成要素として,ストレージ・サービスのS3や,仮想マシン・サービスのEC2を提供しています。これらはすごいシステムだと思います。また,彼らが打ち出している,SaaS,PaaS(Platform as a Service),IaaS(Infrastructure as a Service)という区分けもとても分かりやすく,多くの人が納得のいくものだと思います。それらの構成要素が“エコシステム”として協調し,すべてが回っていくというのがクラウド・コンピューティングの一番の面白い点ではないでしょうか。

:WebメディアであるITproが,クラウド・コンピューティングのような新しい動きを積極的に取り上げるのは分かります。しかし,企業情報システムがクラウド・コンピューティングへ全面的に移行するような動きは,すでに始まっているのでしょうか。日経コンピュータでは,どのように見ていますか?

桔梗原:まだそこまでは行っていません。大企業の基幹システムをSaaS形態にできるかといえば,まだ難しいでしょう。先日,日本郵政グループ 郵便局会社のCIO(最高情報責任者)に取材したのですが,「(SaaSは)情報系業務には十分使えるが,基幹系で利用するのはまだ難しい」とおっしゃっていました。これがユーザーの代表的な声だと思います。同社はセールスフォース・ドットコムが提供する「Force.com」の上で顧客管理システムなどを3万ユーザー規模で利用しています。1年間の利用経験での評価なので説得力があります。今後,SaaSがどのような時間軸で普及していくかは分かりませんが,すべてが置き換わるわけではなく,使い分けになるのだと思います。

三輪:過去を振り返ると,Windowsの登場によってハードウエアがブラックボックス化されました。そうなると次はソフトウエアのブラックボックス化でしょう。確かに,来年すべてのシステムがクラウドになるとは思いませんが,5年くらいのレンジで見ると,企業システムもかなり変わっていくのではないでしょうか。

松本:日経コミュニケーションでは,クラウド・コンピューティングをレイヤー間闘争と見ています。つまりアプリケーションを実行するためのプラットフォームをどのレイヤーが提供するか,という争いです。SaaSなどのアプリケーションを提供する事業者なのか,通信サービスを提供する事業者なのか,レイヤーの上と下からプラットフォームをめがけた競争が展開されている。もちろん,既存のシステムがすべてすぐにクラウドにいくとは思いません。でも,米グーグルのメール・サービスであるGmailのように,一般ユーザーはデータやアプリケーションの機能を「ネットに預けてしまえばいいや」と考え始めています。

:クラウド・コンピューティングは,個人から進んでいくかもしれませんね。だとすると,大企業より中小企業のほうが移行が早い可能性はあるでしょうか。移行のためのイニシャルコストが少なくて済むことを考えると,中小企業向きのような気もします。

桔梗原:SaaSの前身であるASP(Application Service Provider)が登場した2000年当時に,中小企業への普及が先行するのではないかと言われていました。しかし,通信環境がまだ整っていなかったこと,アプリケーションの操作性が悪かったことなどから,実際にはあまり普及しませんでした。通信インフラが整ったいま,経済産業省,総務省も中小企業に対してSaaSを推奨しています。特に,ITの専任担当者がいないような小さい企業には,自前のシステムを運用せずに済むSaaSは歓迎されるでしょう。普及のカギは,パッケージベンダーが本気でSaaSに取り組むかだと思います。

:通信環境のインフラが整ったという意味では,シンクライアントはどうですか。

桔梗原:日経コンピュータの読者の関心は非常に高いですね。シンクライアントは1990年代後半からTCO(Total Cost of Ownership)削減などとともによく話題に上っていましたから,目新しい話ではありません。当時は運用コストを抑える手段としてだけ注目されていましたが,現在では個人情報の漏えい対策や内部統制を目的としたセキュリティ強化の観点から注目されています。シンクライアントはユーザーが使用する端末にデータが一切残らないですから。

 最近は大量導入の事例も出てきています。誌面で取り上げた大和証券グループは,持ち株会社とリテール部門のパソコン1万台をシンクライアントに置き換えることを決め,段階的に導入を進めています。ハードの減価償却前にハードディスクが故障するケースが目立ち,情報漏えいのリスクを考えると気安く修理に出せず,悩んでいたと言います。それと本社が被災した場合の事業継続の観点からシンクライアントの導入に踏み切ったそうです。

松本:通信インフラが高速化した今,モバイル端末もシンクライアントとして使えます。実効速度で600k~800kbps程度あれば,十分使えると言われていますが,それは高速パケット通信規格であるHSDPA(High Speed Downlink Packet Access)のサービスが始まったことでクリアされました。今後は,企業の情報システムにおいてもモバイルが大きな役割を果たしていく可能性が出てきたのではないでしょうか。