20年以上続く「松徳会」という集まりがある。松下電器産業(2008年10月1日からパナソニックに社名を変更)を支えた中尾哲二郎の遺徳を偲び、生前関わりのあった人達による親睦の集いだ。地位や役職に関係なく、今でも数十名が名を連ねている。今回は、メンバーの中から特に中尾にゆかりの深かった5名に集まっていただき、様々なエピソードを明かしてもらった。
 出席者は朝倉栄三(元松下産業機器株式会社社長)、小野幾男(元中尾研究所・部長)、中野稔(元製造・技術研修所長)、西田崇(元中央研究所・試験部長)、松本栄子(元中尾哲二郎秘書)である。(あいうえお順、敬称略)


山添(連載筆者):今日は公私にわたり中尾哲二郎さんと関係の深かった方々にお集まりいただき、いろいろお話を伺おうと思います。よろしくお願いします。早速ですがお一人づつ自己紹介を兼ねて中尾さんとの出会いのエピソードなどをお話しいただけますか。

西田:私は終戦後電池製造所(昭和19年11月に分社制から直轄製造所制に移行)に入社しまして、製品検査所(昭和21年8月に松下工業研究所と能率研究所が統合して発足)に派遣され、そこで初めて中尾さんにお会いしました。

 その後中尾さんは中尾研究所をつくって独立されましたが、昭和27年1月に松下電器に復帰され、本社技術部長と乾電池の技術部長を兼務されました。その時、私は直属の部下になりました。何の理由だったかよく覚えていないのですが、一年半ほど(中尾さんから)仕事がもらえなかったことを記憶しています。たぶん生意気だったのでしょう。「朝会に出たらあとは夕会に来い、仕事はしてはならん」と言われました。「座禅しとれ」という意味やね。仕方ないから、組合役員をやっていたこともあって専従にしてもらいました。

 そうこうしている間に、中尾さんは新しい研究所に移られたんです。そのあと東さん(東国徳:当時第二事業部長でのちに副社長)との間でもめていたところを中尾さんが捨ってくれたんです。そういう出会いですね。

山添:何が理由か存じませんが、余程のことがあったのでしょうか、あの温厚な中尾さんが(笑)。西田さんは本社に移られて乾電池開発に基礎理論面から参画され、その後中央研究所の試験部長として分析の責任者を務められました。

 次は小野さんお願いします。

小野:私は昭和15年、分社の松下乾電池に入社しました。自分は電気が専門でしたが、上司から「松下というところは何でも出来なければいかんのや」と言われまして治具の設計もやり、そのうち化学分析をやることにもなりました。

 中尾さんのことは、最初の中尾研究所時代(昭和22年10月~26年12月)からすでに乾電池の研究をやっておられて、知っていました。松本さんがよく自転車で材料をもらいに来ていましたよね。

松本:そう。よく(松下)乾電池まで行きました。中尾研の終わりの頃は、中尾さんは乾電池の開発を一生懸命やっておられましたよ(関連記事:軍を驚かせたラジオ、4倍の仕事で立ち上げた電池)。

小野:私は戦後兵隊から戻って、四国の須崎工場の再建でいろんなことをやりました。製材所の鋸屑を集めて活性炭の生産計画までつくったのですが、閉鎖令が出て乾電池に戻りました。

 それから朝鮮特需で乾電池を作るのですが、米国製は金属外装、こちらは半田づけ。大人と子供の技術力の差です。工場だけではとてもできないということで、中央研究所をつくることになったのです。その中央研究所に機械工場ができまして、中尾さんとはそこからのお付き合いです。

西田:付け加えると昭和28年ころ、米国の電池メーカーであるレイオバック社が岡田乾電池(のちに東芝と合併)と組んで上陸することが確実になったんです。そのころ松下はフィリップス社と真空管と管球で技術提携を進めていたのですが、乾電池についてはエバレディブランドのユニオンカーバイト社と提携しようとしていました。松下幸之助社長は提携費用に2000万円か3000万円かを用意して、高橋さん(高橋荒太郎:元会長)を使って交渉を進めていたと記憶しています。

 そんな中で中尾さんがみんなを集めて、「(この契約では)松下の技術者の成果は全て向こうのものになって我慢できん。松下の技術解体してしまいたいくらいや。俺はいっちょう頑張ってみたいと思うが皆はどうやろう」という話をしました。みな賛成しました。

 猶予は確か3年と記憶しています。「3年やって出来なかったら松下は乾電池やめよう」と。中尾さんらしい発想ですね。それでその契約に用意した金、2000万円か3000万円かを幸之助さんが中尾さんに「これでやれ」とくれたんだ。僕は鮮明に記憶しているんだが、ほかの誰も覚えていないんだなあ。

山添:この時の決断は松下の技術開発史の中では大きな意味を持っていますね。乾電池を自主開発するために中央研究所が発足し、一年後には日本で初めて金属外装構造を持たせた「ナショナルハイパー乾電池」が完成しました(関連Webページ:松下電器社史のハイパー乾電池の解説)。そして乾電池に関係した研究者が、それぞれ自分のテーマを持って分化していきました。ところで今日は西田さんが貴重な写真をお持ちいただいています。

西田:まず1枚目は松下乾電池時代の職場レクリエーションの写真で、中尾さんが本社の常務取締役と乾電池技術部長を兼務されていた昭和27年ころだと思います。2枚目は中尾さんの還暦祝いの時の写真ですから昭和36年ごろですね。中尾さんの、左隣りが佐々木京大教授(佐々木申二:真空管・管球で松下を指導)、右隣が田中阪大教授(田中晋輔:エジソン像設立委員長を務めた)さんです。三枚目は技術本部の運動会でウナギ掴み競争に奮闘する中尾さんです。中尾さんはこういうことは好きでしたね。

山添:佐々木教授は終戦直後の昭和21年に、真空工業所(松下電子工業の前身)の工場内に分室をつくられ、タングステンの自社生産の道を切り開いていただきました。いわば産学連携のはしりです。

 田中教授はのちに関西大学で工学部長もされ、中尾さんの社葬のときには友人代表でご挨拶もいただきました。運動会の写真は松下電器の枚方研修所の体育館ですか。微笑ましい写真ですね。

 では中野さんお願いします。

中野:入社は昭和26年、定期採用の最初の年でした。東工大(東京工業大学)にも松下から求人が来ていました。私は出身が四国で大阪に行きたかったので、松下に入ったんです。最初は通信機工場(のちの松下通信工業)で、昭和31年の1月までいました。そのころ中央研究所では、乾電池の次のテーマとして通信機が上がっていたんです。それで工場から3名が中研に異動して通信機の研究を始めました。「マイクロ波通信機の研究をせよ」ということで、最初に開発したのがワイヤレスマイクです。

 今でも忘れませんが、昭和32年の経営方針発表会で松下幸之助社長が皆に自慢しました。場所は大阪市内の中央電気クラブだったと思うのですが、「私の前にマイクロフォンが全然ありません。だけど私の声は後ろまで聞こえるでしょう」とね。そして、胸のポケットからやおら取り出して、「これが私のマイクです」と自慢そうに見せていました。皆が「おー」とびっくりしていたなあ。

 その後このワイヤレスマイクは宝塚歌劇でも使われ、寿美花代がステージの奥の方から歌いながら出てきたのでお客さんはびっくりしていましたよ。それから昭和32年の1月になって私は中尾さんに呼ばれ、「カラーテレビをやれ」となったんです。最初に「NHKに行ってこい」と言われまして、半年間NHKの技術研究所に出向しました。日本ビクターの人と一緒でした。

 高柳健次郎さんと中尾さんはとても仲が良かったです(筆者注:高柳氏は日本ビクター元副社長で「テレビの父」と言われている)。(高柳さんは)松下幸之助社長の要請で月に一度は中研に来られていましたよ。これはあまり知られていないけどね。