日本を代表する経営者・松下幸之助。幸之助を技術面から支えた右腕エンジニアの中尾哲二朗。ビジョンを描き、技術でそれを形にするという二人の仕事ぶりは、経営の理想型として数多くの示唆を含んでいる。

 幸之助と中尾を間近で見てきた人々は、この二人三脚をどう見ていたのか。技術と経営の連動は、企業にとって永遠の課題である。中尾と幸之助を多面的な角度から眺めることで、その課題をクリアするヒントが見えてくるはずだ。

 1990年から1996年にかけて松下電器産業の技術担当副社長を務めた松下OBの水野博之氏と、同じく松下OBで立命館大学MOT大学院テクノロジー・マネジメント研究科長の阿部惇教授に、MOT(技術経営)の観点から、幸之助と中尾の二人三脚の真髄を語ってもらった。


山添(連載筆者):水野さんには以前、こういう話をお聞きしたことがあります。松下の重役会で、当時最先端技術であった半導体(その後LSI)の話をされたとき、お二人から次のような質問をされたとか。幸之助さんからは、「水野君、いろいろ説明を聞いたけど、それ儲かるのかね?」と。また中尾さんからは、「水野君、それ作れるのかね?」と。

 技術成果を経済価値に転換する考え方や方法論をMOT(技術経営)の核心と考えれば、このやり取りはそれらの要素を端的に表していますね。(図1

図1●価値創造と価値獲得の枠組み
図1●価値創造と価値獲得の枠組み
延岡健太郎教授(一橋大学)の研究内容を基に山添祥則が作成

水野:いつも技術屋が教訓にしなければいけないことですね。企業から見た時、「実現できないMOT」というものがあります。例えば相対性理論といった素晴らしい科学技術の成果がありますが、これが利用されているとしたらGPSくらいです。GPSの補正には相対性理論が必要ですが、それ以外に相対性理論の事業価値は聞いたことがありません。

 コンセプトからプロセスに乗って実際に便益をつくるということがなかったら、進歩というものはない。もちろん相対性理論にも将来は宇宙などで利用される時代は来ると思いますが、ステップというものがあります。50年、100年先の問題は重要ですが、企業にとって現実的な5年、10年先の経営なしに将来はありません。

 そういう意味で、幸之助さん・中尾さんのコンビは絶妙だったと思います。松下の基礎をつくったのみならず、これこそ日本のMOTの典型ではないかと思いますね。

 MOTというと何か特別な考え方だと思われそうですが、私はそうではないと考えます。アメリカではエジソンがMOTそのものを実践していました。エジソンばかりを言うと学者の中には機嫌が悪くなる人もいますが(筆者注:発明家の枠を超えて事業家としての強引な行動に批判もあった)技術を基に大きなビジネスの花を咲かせたという点で、エジソン抜きにMOTは語れない。幸之助さんと中尾さん二人のコンビは、思想的にはそれと同じような位置づけにあるのではないかと思います。

 幸之助さんについては語りつくされているので、中尾さんに焦点を当てて言うと、これはもう技術者魂の権化です。技術者にとっては、難しい本を読むのも難しい数式を解くことも重要なことですが、自分で考えるというのが何よりも大事なんです。本に読まれてしまったり、数式に飲み込まれたんではしょうがない。一番大事なのは、勉強した後、自分は何を考えたかということです。

 中尾さんについていえば、あの人ほど考えた人はいない。経営において松下幸之助さんほど考えた人はいないと同じような意味で、中尾さんは並ぶと思いますね。幸之助さんは「経営ほど面白いものはない」と朝から晩まで考えていた。中尾さんは技術というものを朝から晩まで考えていた。

技術者は大切な仲間

 もう一つ中尾さんのすごい点は、それだけではない。得てして技術屋は偏屈になるものですが、私が中尾さんについて一番感心した点は、実に心の広い人だったということです。

 私が松下電子工業に在席していた若い頃、三由さん(三由清二・元松下電子工業社長)に「本社は半導体の投資に一銭も出さないのはけしからんと言うて来い」とけしかけられた。さらに、「本社は自分のことは棚に上げ、電子工業はようやらんと言う。中尾さんにそう言うて来い」と。

 当時まだ課長か室長くらいだった私は当然「えらいことになったな」と思ったのですが、私にも多少その思いがありました。なので、中尾さんがいらっしゃった中研(中央研究所)に乗り込んでいったのです。私は中尾さんの前で「半導体をやらないかんとおっしゃいますが、本社は何をしているんですか。半導体というのは一子会社の努力で何とかなるものではないです」と啖呵を切った。そして、「本社の技術総責任者として中尾さんどうお考えですか?」と迫ったんです。

 中尾さんはムッとされたようでした。でも、怒らなかった。本社の副社長が子会社の課長か室長かにそこまで言われて怒らない方がおかしいのだけれどもね。中尾さんは「君そんなこと言うけど、電産本社には半導体のハの字もないがな」とおっしゃいました。私は「それなら我々に任せてください」と言いました。すると中尾さんは「任せておるが心配じゃから」という具合だった。

 相手がどんな立場の人間でも相手の心境をおもんばかり、言葉を選びつつ説得する姿勢は本当に立派だと思いました。あれだけはどう考えても真似できません。帰って三由さんに報告したら、「そこがあの人のいいところだ」と言われました。

山添:中尾さんは技術者に対しては皆仲間だ、同士だという気持ちを持っておられたのではないでしょうか。

水野:そうそう。おそらく中尾さんは半導体を勉強しようという気持ちだったのでしょうな。

 ともあれ、幸之助さんの経営と中尾さんの技術。この両翼で松下が伸びてきたことは間違いありません。

山添:阿部さんは中尾さんとはどのような接点がおありでしたか。

阿部:私が昭和44年(1969年)に入社した当時、真空管式のテレビからトランジスタ式のテレビに替わる端境期でした。ただ、工場では肝心のパワートランジスタがボンボン壊れていました。そこで中尾さんに呼ばれて、「原因を調べろ」というわけです。

 調べてみると放熱の問題だったことが判明し、中尾さんに「シリコンチップの下の銅の放熱板の厚みが問題」と報告しました。銅板厚みの数字を適当に答えていたら、中尾さんが引き出しからノギスかなんか取り出してね、チェックされたんです(笑)。

水野:あれはかなわんな。ありうる、ありうる(笑)。

阿部:副社長なんだから部下に「測っておけ」と言えばいいんだけど、自分で持ってきてやられる。私は「これはいい加減なこと言えないな」と思った記憶があります。そういう実学・実践の厳しさを勉強させられました。