本稿は七月二十四日未明に公開した『英単語は一切使うな』の続編である。紛らわしい題名を付けて申し訳ない。本来なら『続・英単語は一切使うな』とすべきだが、あえてそうしなかった。それには理由がある。

 実は七月二十四日付記事の題名『英単語は一切使うな』は間違っており、正しくは『英略語は一切使うな』であった。筆者が意図したものとは違う題名で公開してしまったので、続編に元々の正しい題名を付けた次第である。

 題名を間違えた経緯を書いておく。公開日の前日、二十三日の午後十五時に原稿を書き上げ、当電子媒体を運用している編集部の担当者に原稿を電子郵便で送った。編集担当者が原稿を電子媒体に投稿し、筆者は夕方十八時過ぎにそれを確認した。正直言って微かな違和を感じたのだが、次の予定が迫っており、気付いた修整点だけを編集担当者に伝え、外出した。

 記事は無事七月二十四日公開され、有り難い事に多くの方に読んで頂き、閲読件数順位の第一位になった。順位とともに表示された題名を見て、「あれ、こんな題名にしただろうか」とようやく気付いた。早速、送信履歴と送った原稿の中身を確認したところ、七月二十三日十五時二十五分に送っており、原稿の題名は『英略語は一切使うな』と正しいものになっていた。「ははあ、担当編集者が原稿を投稿する際、題名を一文字打ち間違えたのだな」と一旦は納得した。

 しかしよく考えてみると、投稿の際には原稿の文字を電子的に切り張りするはずだから、打ち間違えは普通生じない。「もしかすると」と別の事に気付き、七月二十三日の朝七時二十分に送信した別の電子郵便を開けてみた。するとそこには『英単語は一切使うな』と書いてあった。何のことはない、筆者が間違えた題名を送っていたのである。

 なぜ二度も編集者に題名を送ったのか。新規に公開される記事を読者に告知するため、読者に電子郵便を送るのだが、その郵便作成の期限は公開前日の昼である。締切通りに原稿を書いて提出すれば、告知用電子郵便を作成する時に、原稿も題名も編集者の手元にある。だが、今回の場合、筆者の執筆が遅れ、編集者が告知用電子郵便を作成する時期までに原稿を完成できなかった。やむを得ず、題名と告知用電子郵便に掲載する最初の一段落分の文章だけを朝送って、それで告知用電子郵便を作ってもらった。

 それから本文を書き続け、十五時に原稿全体を完成し、それを改めて送信した。不整合が生じては拙いから、朝送信した題名と一段落分には手を入れず、そこから後の原稿だけを書いたつもりだったが、いつのまにか『英単語は一切使うな』を『英略語は一切使うな』に直してしまったらしい。「うっかり間違いは叱っても減らない」ものだ、などとここで言うともっと叱られるだろう。

一か零か、極端思考の弊害

 実は、前回の原稿には、もっと大きい欠陥があった。読者から指摘されたので、以下にそのことを書く。前回原稿の後半で、「与えられた諸条件を満たしつつ所定の成果を一定期間内に出す活動」を「うまくやる方法」について触れた。あちらこちらの個人電子掲示板を回ってみると、この話が面白いという書き込みがいくつかあった。「与えられた諸条件を満たしつつ所定の成果を一定期間内に出す活動」を「うまくやる方法」を研究している非営利団体の知り合いからも「笑いました」という電子郵便が送られてきた。

 しかし、ある個人電子掲示板で、『「発想に形を与える」よりも「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」の方がずっと好きなのですが、その場合はどうしたらよいでしょう』と感想を書かれた方がいた。この意見は、前回拙稿の次の下りに反応された結果である。

 普通の日本語で難しい話を実に分かり易く書いている。例えば冒頭で「与えられた諸条件を満たしつつ所定の成果を一定期間内に出す活動」とは何かと問いかけ、ずばり「発想に形を与えること」と定義している。なるほど、これなら楽しい話になりそうだ。同書は、こうした活動は一度はじめると面白くてやめられないものだ、という主張で貫かれている。「発想に形を与える」どころか、逆に「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」になってしまうと、あの不愉快な労働環境の悪さを示す英語もどきが出てきてしまう。

 今読み直すと、確かに「発想に形を与えること」は楽しい、「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」は不愉快、ととれる表現になっている。これは筆者の表現が拙い。先の個人電子掲示板には、『「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」も大事であります。「発想に形を与える」のほうが上であるかのような印象を与えてしまったとしたら、すいません』と書き込んでお詫びした。

 「発想に形を与えること」と「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」はしばしば両立する。つまり誰がいい発想をして、その実現を別な人に頼んだが、関係者にわがままな人が多く、仕事を請け負った人が苦労して、もともとの発想通りのものをようやく仕上げた、という場合である。

 筆者は日頃から、「一か零か、の極端思考の弊害」を説いているのだが、当の本人が「発想に形を与えること」が一、「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」は零、ととれる文を書いてしまった。言い訳になるが、ことほどさように「一か零かの極端思考」は根深いのである。

 反省しつつ前回の原稿を読み直すと、同じような印象を与える下りがもう一つあった。「与えられた諸条件を満たしつつ所定の成果を一定期間内に出す活動」を「うまくやる方法」の定義として、筆者は「集まった人達がそれぞれの機能を果たし、楽しく生き生きと活動することを保証するためのもの。進展のための次の一手や、拡大する道筋を生み出す活動。日本語でいうところの管理とは、意味も役割も異なる」というものを紹介し、「まったくその通り」と書いた。

 問題はその次である。「電子計算機設置場所に動員された情報技術者の点呼をとったり、ああしろこうしろと管理することが仕事であると錯覚している管理者」という下りがある。上述の定義を持ち上げようとするあまり、また筆が滑ってしまった。点呼をとったり、口すっぱく指示をしないと、物事を進められないことも当然ある。

 「わがままばかり言う人の意見を調整し、なんとか言われた通りのものを作る仕事」をきっちりやることは重要である。問題解決はそういう仕事かもしれない。ただ、きちんとものを作ったり、与えられた問題を解いただけでは、不十分な場合もある。理詰めで問題を解くのではなく、頭を柔らかくして通常とは違う発想をし、それを形にすることによって、結果として問題が解けることもある。両方の考え方、両方の活動が必要なのである。

 筆者が編集責任者をしている二つの電子媒体において、先週から毎日、大前研一氏の動画を公開している。昨日八月四日、最終回を公開した。ここで大前氏はまさに、「新しいことを発想する力」と「問題解決の力」について触れ、二つの力は両立すると力説している。仕事場では動画を見にくいかもしれないが、夏休みの時、自宅などでぜひご覧になって頂きたい。