前回は,個人情報ライフサイクル管理の観点から,東京大学医科学研究所で発覚した不適正な研究論文の問題について取り上げた。今回は,改正作業が進められてきた「臨床研究に関する倫理指針」について考察してみたい。

要員不足の医療現場で懸念される臨床研究指針改正の負荷

 「臨床研究に関する倫理指針」は,人を対象とした健康に関する科学研究(臨床研究)の指針として2003年に策定された。制定後5年を目途に見直しすることとされており,厚生労働省は,2007年8月に厚生科学審議会科学技術部会臨床研究の倫理指針に関する専門委員会を設置して,検討を開始した。2008年5月には「臨床研究に関する倫理指針」改正案が公表され,パブリックコメント(「臨床研究に関する倫理指針」の改正案に関する意見募集」参照)を経て,7月23日の第46回厚生科学審議会科学技術部会で改正案が了承された。改正臨床研究指針は,2009年4月1日より適用開始の予定である。

 現時点で公表されている「『臨床研究に関する倫理指針』の改正についての報告(案)」を見ると,人的・組織的対策に関わりの深い改正点として,研究者および臨床研究機関の責務の明確化と倫理審査委員会の役割の強化が挙げられる。主な内容は以下の通りだ。

【研究者等の責務】
  • 医薬品,医療機器による介入研究においては,健康被害発生時の補償のために事前に保険等手段を講じることを求める。
  • 医薬品,医療機器による介入研究等については,開始前に臨床研究の公表を目的とするデータベースへの登録を求める。
  • 臨床研究実施に際しての研究者等への研修受講の義務づけ。
【臨床研究機関の長の責務】
  • 予期しない重篤な有害事象,不具合等については,対処内容の公開及び,その内容の厚生労働大臣等への報告を求める。
  • 重大な指針違反が判明した場合には,対処内容の公表及び厚生労働大臣等への報告を求める。
【倫理審査委員会】
  • 他施設の倫理審査委員会への倫理審査の依頼が可能となる(現指針では,臨床研究機関が小規模の場合に限っている)。
  • 倫理審査委員会の名簿,活動状況等について,年1回,厚生労働大臣等への報告を求める。
  • 倫理審査委員会設置者は,倫理審査委員が研修を受講するよう努めることとする。

 これらの改正により,東京大学医科学研究所で起きたようなケースを未然に防止する対策が強化される反面,臨床研究に関わる現場スタッフや責任者の負荷も増えることになる。医療機関の要員不足が深刻化する中,改正指針に基づく対策を患者/家族に分かりやすく説明してインフォームド・コンセントを受けるためには,相当の労力を要する。個々の研究者レベルでの対応に依存した組織体制からの脱却が求められるだろう。

臨床研究指針改正を機に望まれる情報漏えい対策の共通基盤化

 ところで,「臨床研究に関する倫理指針」改正案に出てくるキーワードに,「組織の代表者等(臨床研究機関を有する法人の代表者及び行政機関の長等の事業者及び組織の代表者)」というものがある。個人情報保護対策の観点から,前回取り上げたケースを考えると,「独立行政法人等の保有する個人情報の保護に関する法律」に基づいて個人情報保護に関する責務を最終的に負うのは,臨床研究機関の「東京大学医科学研究所」ではなく,研究所を有する法人である「国立大学法人東京大学」の代表者,すなわち総長になる。個人情報保護組織の場合,情報システム部門のスタッフが関与するのが普通だが,臨床研究機関や倫理審査委員会では,医学系研究の専門家が中心であり,IT専門家が直接関与しているとは限らない。「組織の代表者等」の責任は重大である。

 医学系研究に関連する個人情報漏えい事例を見ると,個人データを保存したパソコンや電子記録媒体の盗難/紛失が大半を占めている。暗号化,アクセス制御など,研究者レベルで対応可能な情報漏えい対策のガイドラインがあれば,倫理審査委員会に提出する臨床研究計画書を策定する際に,二次被害や類似事故の未然防止策を組み込んでおくことが可能になる。

 医学系研究の場合,大学,医療機関,企業など,異なるICT(情報通信技術)基盤を有する複数の臨床研究機関の研究者が共同で作業を行うケースが多い。計画段階から,情報漏えい対策の標準化/共通基盤化を図っておいた方が,個人情報管理の効率化につながり,患者/家族の理解を得られやすくなるはずだ。

 日常的にセンシティブな個人情報を取扱う医学系研究だが,日本の場合,欧米に比べて,生命/医療倫理とICTの知識を兼ね備えた人材の層は薄い。情報漏えい対策の標準化/共通基盤化のように,比較的取り組みやすいテーマから始めるのが近道かもしれない。

 次回は,フィッシング詐欺について取り上げてみたい。


→「個人情報漏えい事件を斬る」の記事一覧へ

■笹原 英司 (ささはら えいじ)

【略歴】
IDC Japan ITスペンディングリサーチマネージャー。中堅中小企業(SMB)から大企業,公共部門まで,国内のIT市場動向全般をテーマとして取り組んでいる。医薬学博士

【関連URL】
IDC JapanのWebサイトhttp://www.idcjapan.co.jp/