6月初旬、都内のホテルで昨年8月に日本IBMを退社した遠藤隆雄の日本オラクル社長兼CEO(最高経営責任者)就任披露パーティが催された。祝辞を述べたのは、9月から業務を開始するビジネスコンサルティング会社「シグマクシス」の倉重英樹CEOである。会場には、米EDSを買収し、サービス分野でもIBM最大のライバルとなった米HP(ヒューレット・パッカード)の日本法人社長、小出伸一も駆け付け、3人は会場でしばし談笑していた。この3人は共に、紆余曲折の末にIBMを退社したところが共通点。歴史小説風にいえば、官軍の将軍を辞して変革の志を同じくする「梁山泊」として合流したようなものである。

 彼らと同じく、「IT業界を元気にしたい。世直ししよう」と日本IBMを勇躍退社した人がいる。ナスダック・ジャパンCEO、EDSジャパン社長を経て、医薬品情報・ソリューションサービスのIMSジャパン社長となった佐伯達之である。佐伯と倉重が90年代初期、北城格太郎(現日本IBM最高顧問)と社長の座を競い合ったのは有名な話だ。結局、当時の日本IBM社長の椎名武雄が大岡裁きで日本IBMを3社に分割。3人ともに社長となったが、本家(日本IBM)社長には北城が就任。倉重と佐伯は日本IBMから身を引いた。

 その倉重と佐伯が9月から東京・神谷町の同じビルに同居する。しかも2人のオフィスは、米IBMが24年前、日本を含むアジア・太平洋地域の指揮拠点を置いたビルの真向かいだ。オフィスビル乱立の折に、あえて彼の地を選んだのにはいわく因縁があるのかもしれない。

 IBMに27年勤めた倉重は93年、当時の米プライスウォーターハウスコンサルタント(後のプライスウォーターハウスクーパースコンサルタント、PwCC)の日本法人会長兼社長に転じ、持ち前の創造力と変革力でプロフェッショナル人事制度や新ワークスタイルを実践。9年で社員を10倍の1700人に、売り上げを20倍に拡大させた。しかし02年末、IBMが米PwCCを吸収合併。PwCCを、IBMのビジネスモデルを超越する企業に作り替えるという倉重の戦略が挫折する。

 IBMは倉重の会社を買収する際、変化球を投げた。他国のIBMと異なり、PwCCを日本IBMに直接吸収せず、米IBMの100%出資で「IBCS(IBMビジネスコンサルティングサービス)」を設立。IBCSは日本IBMと同格のコンサルティング会社としてスタートした。「買ってみればもぬけの殻」を阻止するためだ。コンサルティングは人が生命線だ。米IBMは倉重の求心力を恐れたのである。

 倉重がCEOに就いたシグマクシスは、三菱商事(51%出資)とベルギーの投資会社RHJインターナショナル(同49%)の合弁。倉重は「資金力と情報力に長けた銀行と商社がビジネスコンサルに最も近い位置にいる」と話すが、日本の銀行は担保主義に拘泥し、持てる力を発揮できていない面がある。倉重は三菱商事から1年前に持ちかけられたコンサル設立の計画に乗った。

 三菱商事もRHJも資金・情報量は申し分ない。それをバックに「もう一旗」を期している。シグマクシス(SIGMAXYZ)という会社名にも意味がある。XYZは三次元でかつ未知数で、Zは究極も意味する。「顧客に経営を立体的に見せる究極のビジネスコンサルに挑戦する」と読める。

 倉重が描くビジネスコンサルの75%はPwCCで達成した。シグマクシスで残り25%を完結させる。決め手はビジネスモデルだ。テクノロジーを持つメーカーが顧客企業にIT部門を作らせ、経営へのIT翻訳機能としたのが旧モデルだった。新モデルはテクノロジーとビジネスをつなぐ専門家やアウトソーサが直接、経営層に働きかける。

 今のIBMのモデルもこれを目指しているが、IT部門と深いきずながあるほか、コストベースの価格や請負契約などの旧弊を引きずっていることが弱みだ。倉重は顧客企業に対して「価値ベース」の価格で攻める。3~5年で社員を2000人に増やすほか、テクノロジー企業を買う戦略もある。「あと10年若かったら」という倉重は、まもなく新会社で新たなスタートを踏み出す。