「各人が自分の仕事の経営者であるという自主的精神を持とうじゃないか」。松下幸之助は1963(昭和38)年に述べた経営方針の中で、全社員にこう呼びかけた。この精神を幸之助は「社員稼業」という言葉に込めた。

 一方で中尾哲二郎は「企業技術者はそれぞれのプロジェクトの経営者である」という言葉を全技術者に向けて遺している。社員稼業の技術者版ともいえよう。

 自らがプロジェクトを経営するという意識に立てば、自分が「売れる技術力」を持っているか、そしてその技術力を使って「売れる技術成果」を達成しているか、が何よりも重要である。売れる技術力や売れる技術成果がないということは即、会社の倒産を意味するからだ。

 このような前提に立ち中尾は次の3点を技術運営の基本とした。一つ目は、プロジェクトの行動計画を明確にし、これを全員が実現していくこと。二つ目は、各人の技術力の向上を期すこと。三つ目は、切迫感を持つことである。特に三つ目については「大きな成果を見ないのは切迫感の乏しさに原因がある」として、切迫感を持つことの重要性を説いた。

 70歳を超えた中尾が最後の仕事として心血を注いだのが、第一部でも取り上げたポータブル石油ストーブ「クリアメカ」の開発(1973年~74年)である()。土日には自宅でドラフターに向かって設計したほどに「自分の持つ全てを伝えたい」と宣言して取り組んだこの開発は、中尾の技術者人生の集大成ともいえるだろう。

表●石油ストーブ「クリアメカ」プロジェクトの経緯
区分 石油ストーブ事業とプロジェクトの内容
プロジェクト
の背景
1962   ・石油機器事業部発足、1967年には業界トップの生産数
(年間100万台生産)
1969 10 ・累計生産400万台を達成。だがこの頃、松下電器を含め各社製品で燃焼タールが溜まり、芯の上下ができなくなるとのクレームが多発(各社)
・石油ストーブ事業の撤収を決定するも、売れ筋である石油ストーブの継続開発を求め、販売会社サイドが強く反対
1972 2 ・副社長の中尾が中央研究所にポータブル石油ストーブ研究室(大迎淑三室長)を発足させ燃焼基礎研究がスタート
1973 7 ・生産再開が決定
プロジェクト
の推移
1973 8 ・第一回ポータブル石油ストーブ開発推進会議にて、中尾が「この開発を通じて、若い皆さんに私の持っている全てを伝えたい」と宣言
1974 10 ・ポータブル石油ストーブ「クリアメカ」の開発に成功
ワンタッチ消火方式の「クリアメカ機構」を備え、二段火皿燃焼などの工夫により臭いやススの出にくいという点で、従来の石油ストーブと大きく差異化した製品として販売
1975   ・「クリアメカシリーズ」を発売開始、国内だけでなく米国市場でもヒットする

写真●プロジェクトに参加した若手技術者・吉村益一が書き残した手記
中尾の「生の教え」が詰まっている
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 事業部から参加した技術者・吉村益一は、「石油機器事業部の原点を忘れないために」という開発記録を書き残している(写真)。その中から注目すべき記録を抜き出し、苦難を乗り切る励みとなった折々の「中尾語録九カ条」を綴ってみたい。

 読者の中には「たかが石油ストーブではないか」と思う方もいらっしゃるかもしれない。しかし石油ストーブには、灯油の特性に対応した燃焼理論に始まり、タールの発生しない灯心材料・構造、点火・消火の精密機構、高品質・高信頼性・低コストの高度な商品力が要求されたことを付言しておきたい。安全性と信頼性、そしてコストの追求――現代の商品開発にも通じる魂がここに宿っている。