小学生だったころの話である。戦中派の方が校長先生だったのか何だかよくわからないけど、「日本人は質実剛健、臥薪嘗胆だ」みたいな校則が満載の学校に通っていた。当然ながら年中半ズボンで、真冬でも靴下は禁止。石炭ストーブはあったけど、池に氷が張るような日でなければ火は入らない。普段は給食なのだが遠足や行事などの日は弁当持参、その際は「おかずは3種類以内」という規定がある。ご飯の上に載せる海苔もおかずの1種類にカウントするという厳しい内容だ。

 その「贅沢は敵だ」的小学校で、新たな規制が施行された。頭の丸い鉛筆が使用禁止になったのである。当時10円とかで売られていた標準的な鉛筆のほかに、50円とかする高級鉛筆があって、その頭は切りっぱなしではなく、丸く加工され塗装されていたのである。それを「持っている、持っていない」といったことで、児童間に優越感と羨望が渦巻くような状況が生まれた。で、禁止。これにはまいった。

 私は頭の丸い鉛筆の利用者だった。といっても別に「いいとこのお坊ちゃん」だったわけでも人より見栄っ張りだったわけでもない。土木建築系の設計技術者であった父から貰って使っていただけなのである。図面を書いたりするのに必要なので、それは職場で支給される。けれど、戦中戦後の貧しい時期に育った父は、それを大切にすごく短くなるまで使い切るものだから、支給分が消費し切れず余る。それを息子である私に下げ渡していたわけだ。

本当のことを言ってはいけない

 その、無料の鉛筆が使えなくなると、せっかくあるのに別の鉛筆を買い求めなければならない。それは困ったということで、幼い頭脳を駆使して考えた。そこで思いついたのが、逆さに頭から鉛筆を削るという手段だった。丸くなった方を削ってしまえば、それは外観上、普通の茶色い鉛筆になってしまう。けど、こういうことって誰かが気付き、そしてチクる。何だか知らないけどある日突然、えらく先生に叱られた。「でも先生は頭が丸い鉛筆は禁止と言いましたよねぇ。これは丸くないから、何ら問題はないないはずじゃあないですか」などと抗弁したことが火に油を注いだようだ。「本当のことを言ってはいけないこともある」ということを、私はこのとき学んだ。

 そんな印象深い事件もあってか、鉛筆には萌えるのである。燃えもする。だから、先日「コーリン鉛筆の人とメシでも食いませんか」との誘いを受けたときは、一も二もなく飛びついた。何でも、コーリン鉛筆は国内3位の鉛筆メーカーだったのだが、1997年に倒産してしまった。ところが同社にはタイに合弁の海外法人があり、そちらはコーリン倒産後も操業を続けている。そこで頑張ってきた日本人がこのたび日本に販売会社を設立、日本再上陸を期して戦略を考案中なのだという。

 その彼に会った。コーリンの、秘密結社みたいな三角形のトレードマークをバーンとプリントしたTシャツを着て現れた彼こそが、コーリン色鉛筆の代表を務める井口英明氏であった。彼は、「1年も頑張ればタイで働けるようになる」という言葉に誘われ、「超売り手市場」と呼ばれた就職環境下、コーリン鉛筆を就職先に選ぶ。紆余曲折を経て念願のタイ勤務となるのだが、そこで思わぬ災難に遭う。親会社であるコーリン鉛筆が倒産してしまったのだ。その時点で彼には二つの選択肢があった。タイに残って働き続けるか、帰国するか。そこで彼はタイに残ることを決心する。「鉛筆作り」に魅せられてしまった結果だった。

一巡したら忘れられ・・・

 ただ、現在のタイ法人は、コーリン鉛筆の資本がなくなり、増資によって完全に現地資本の会社になっている。彼にとって決して居心地のいい場所ではないし、ただタイ国内向けの鉛筆を作っているだけでは面白くない。そこで、今回の「日本でのコーリン復活」に行き着くわけである。

 売り物は色鉛筆。その芯材にはよほど自信があるらしい。それを使った色鉛筆を作り、日本で販売する。それが基本戦略である。けど、「あのコーリンが復活して日本再上陸!」などとメディアに取り上げられ、「おー懐かしー」とか言って消費者のいくばくかの人たちが買って、それが一巡してしまえばあとはどうなってしまうのか。それが悩みらしい。色鉛筆市場が急成長している状況でもないので、ただ作って売ってみても競争優位性がない。

 そもそも、色鉛筆という商品自体が微妙なものである。本来は使うものなんだけど、本当に使うものなのだろうか。私もそのあやしい魅力に誘われて、くらくらと高額の48色セットとかの色鉛筆セットを買ってしまったことがある。東京・六本木の最先端スポット、ミッドタウンの中にもファーバーカステルというドイツの老舗筆記具メーカーのショップが入っていて、そこに飾ってある木製の段箱に入った120色の色鉛筆を「すげー欲しー」とか思って眺めたこともある。でも、自身の経験でいえば、使わない。欲しいけど別に切羽詰まった用途はないのである。

100円と1万円はアリでも1000円はナイ

 それでも「ちょっと使ってみたいな」という場面が巡ってこないわけではない。けど、もったいないから使わない。せっかく48色がビシっとセットで揃っているのに、その1本だけを使おうなどという気にはとてもならないのである。「じゃない?」と聞いてみると、「その通り、だから需要が一巡するとたぶん売れなくなる」と井口氏はいう。

 「いやね、安ければ大量に買いたいという話はあるんですよ。先日も100円ショップから引き合いがありましてね、現金をバーンと出して、『xx円にしてくれるならごっそり買うぞ』などと言われました。けど、品質を考えればそこまで安くはできないんです」

 そうそう、価格競争は苦しいから。けど、中途半端な値段ではなおさら苦しい。そもそも鉛筆は、子供用の色鉛筆を除けば今や「こだわりのある人しか使わない」ものである。万年筆と同じようなものだと考えればいいだろう。かつて、多くの人が万年筆を使っていたころは、例えば今の貨幣価値で数千円とかの商品がボリュームゾーンだったのかもしれない。けど、今は違うはずだ。売れるのはたぶん数百円と数万円の商品で、数千円の商品は極めて成立しにくいのではないかと思う。