プロジェクトマネジメントの国際規格作成を最初に提案したのはイギリスである。英国規格協会(BSI:British Standards Institution)が2006年8月,新業務項目提案(NWIP:New work item Proposal)として,プロジェクトマネジメントの規格化をISOに提案した。NWIPとは,新規に国際規格として議論するために最初にISOへ提出される提案書である。

 通常,このような提案に対しては,議論を進めるかどうかについて各国の賛否が問われる。「プロジェクトマネジメントに関わる国際規格作成」に対する投票が2007年2月に行われ,賛成19,反対4で可決された。PC(Project Committee)236が発足し,ここで議論を進めていくことになった。

 幹事国は,米国規格協会(ANSI:American National Standards Institute),議長国はBSIである。日本はPメンバー(Participating Member)としてPC236に登録された。Pメンバーとは,投票権を持ち投票と会議出席の義務がある国だ。

 2008年5月現在,Pメンバーが25カ国,Oメンバー(Observer Member:投票権は無く情報を受けるだけの国)が3カ国ある。ほかにAリエゾン(ISOと当該組織が相互に文章を参照できる)としてのIPMA(国際プロジェクトマネジメント協会)で構成されている。IPMAとは,欧州を中心とした世界各国のプロジェクトマネジメントに関する団体が加盟する非営利団体である。これを受け,日本でも2007年6月,関哲朗文教大学准教授を委員長として,PC236日本国内対応委員会を発足した。事務局は情報処理推進機構(IPA)である。

 プロジェクトマネジメントの国際規格は,BSIとANSI,いくつかの国や組織の現存する規格をベースとして,開発されることが最初から決められていた。日本の立場として心配しているのは,PMBOKなど国内の産業界で既に広く使用されている標準と,これから作る国際規格が乖離したものにならないかどうかである。もし,これが乖離して定義されてしまうと,国際規格に準拠する手間や社内制度の改変など大きな損失が生まれる可能性があるからだ。そのため日本国内の規格がスムーズに適合・反映できる国際規格とすることを,国内対応委員会活動の目標としているのである。

 これまでのところ,国際標準作成の議論のベースとなっているのは,英国のプロジェクトに関する国家規格(BS6079:2002)と,米国ANSIの規格(ANSI/PMI99-001-2004)であるPMBOKガイド(A Guide to the Project Management Body of Knowledge)第3版の用語集である。2010年までに国際規格として発効/完了することを目標としている()。

表●ISO化のスケジュール
2007年10月28日~11月4日 ISO/PC236第1回国際会議
2008年1月 委員はアサインされたプロセスの定義をし,ワーキング・ドラフト(WD)作成開始
2008年2月15日 WD発行
2008年02月 WDをPC236会議参加国に配布,各国はコメントを国際会議までに提出
2008年4月21~25日 PC236会議,ワシントンD.C.にて上記を解決し,WDを改訂
2008年6~9月 改訂されたWDへコメントを反映
2008年11月3~7日 第3回国際会議(ドイツ)
2008年12月 コミティ・ドラフト(CD)を作成
2008年12月~2009年3月 CDへのコメント
2009年3月~6月 CD投票
2009年5月 第4回国際会議(日本で開催)
2009年11月 第5回国際会議(開催場所未定)

日本は「コンピテンシ」について提案している

 日本チームはコンピテンシ(プロジェクト・マネージャの能力)に関するANNEX(付帯文書)を国際標準に含めることを提案している。これは,プロジェクトマネジメントに必要なコンピテンシを定義し,プロジェクトを担う人材を育成する際に考慮すべき点を参考情報として示すものである。

 日本にはITSS(ITスキル標準)があり,IT業界ではこれが能力判定や人材育成に利用されている。ITSSで実現した考え方は,世界標準となってもおかしくない高い説得性を持つと考えている。プロジェクトマネジメントの国際標準が,単に手順や用語の標準にとどまらず,それを遂行する人材のスキルを参照するのに役立つものになることを期待しているのだ。

 今回のワシントン会議では,日本が提案したANNEXについての議論に多くの時間が費やされた。各国の反応は以下のようなものであった。

(1)コンピテンシの重要性は理解する。しかし,各国はそれぞれ人材能力を認証する仕組みを持っている。それと整合性を取るのは大変なので,この委員会で取り上げるべきでない。
(2)コンピテンシの重要性を理解する。だからこそ,ここで取り上げるのではなく,別のPC(Project Committee)を設置して,しっかりとした標準書を作成するべきだ。
(3)主観的な価値観を押し付けるべきでない。標準書は客観的な事実をコンパクトに書くものである。
(4)日本が提示したANNEXは,文章が不完全で,文意があいまいである。言及している内容が広範すぎる。必要性が理解できない。

 (1)と(2)は,そもそもこの議論を取り上げるかどうかについての意見である。これについては,前回のロンドン会議で議論となり,その場では「とりあえず日仏チームに原案を作らせてみて,その上で文書として残すかどうかは投票にかけて決定しよう」ということになっていた。そのため,今回のワシントン会議では,これらの意見に取り合う必要はない。ただ,コンピテンシを扱うことに対する根強い抵抗感があることを踏まえて,十分に理解してもらうための努力と味方を増やす努力が必要である。

 (3)は,技術的なアドバイスであり,ありがたい。確かに,今回作成中の他の文書に比べると,日本チームが作成したANNEXは情緒的と言えるかもしれない。英語圏の人たちが書く文書は,論理的な流れを多彩な動詞の使い分けで簡潔に表現する。それに対して,日本語に慣れている日本チームの文章は,論理展開を接続詞で示すことが多いため,一言で言えば文章全体が長くなり,くどくなる。これが「価値観を押し付けているのではないか」との印象を与える原因ではないかと思う。

 ただ,そうは言われても,まずこちらのロジックを正確に伝えることが大切だ。批判は批判として受けるが,主張すべきことを不足無く伝えようとしたことに問題は無い。問題はコンピテンシの定義である。コンピテンシには様々な定義がある。世界共通の定義を作れるかどうか,どの程度の粒度でとどめておくべきかは,悩ましいところである。専門家同士の議論が必要となる。

 (4)の文章が不出来であるとの批判は大いに反省しなければならない。技術を内容とする文書だからといって,文法や用語の適切性がいい加減であることは許されない。正確な英語を書くように努める以外に方法は無い。今回は,正確な英語を書くことが専門家を議論に巻き込むスタートラインであることを肝に銘じた会議であった。

 さて,厳しい意見の多かったワシントン会議であったが,味方となってくれる専門家も多かった。我々が作文に苦しんでいると,米国とドイツの専門家が作業を手伝ってくれた。厳しい意見を主張していた専門家の多くが「文書を残したいならコンピテンシの定義に注力した方がよい」とアドバイスしてくれた。標準文書とはこういうふうに書くのだといって,日本案をほとんど全部書き直してくれた専門家もいる。

 熱意と信念があれば思いは通じる。特に標準作成過程における現在は,専門家が個人の知恵と経験と良心のみをもって良い標準原案の作成に協力している段階であるから,ITSSの思想が真に価値のあるものと認められれば,文書が生き残る可能性はある。

 現在,修正したANNEXをPC236のWG3のメンバー全員に配布して意見を求めている。7月にPC236メンバー全員による投票が行われる。それに向けて,可能な限りANNEXの完成度を高めていく。会議で親しくなった専門家からのメールを読み,その顔や話し方を思い出しながらの作業は,思いのほか楽しいものである。