顧客からの価格交渉に対して,二つ返事で容易に応じてしまうプロジェクト・マネージャ(PM)がいる。気持ちは分からないではないが,それは破滅への道である。システム開発プロジェクトにおいて,顧客からの価格交渉に簡単に応じてはいけない。特に「値切り」に属するような値引き交渉である場合には断固として応じてはいけない。

値引きに応じられて怒り心頭

 筆者が以前の職場でPMとして働いていたときの話である。そのプロジェクトは,システムの特性や過去の経緯もあり,W社に指名入札することとなった。そこで,筆者のチームは要求仕様書およびRFPを作成し,それを基に入札に関する説明会を実施した。W社からは営業担当者とPMであるBさんが参加していた。

 説明会の後,何度か詳細な詰めの打ち合わせを行い,最終的な見積もり範囲が確定したので,W社から見積もり書を提出してもらった。W社からの見積もり内容は,こちら側の予算を若干超えており,価格交渉を行う必要があった。そこで,筆者は,上司であるC部長とともに価格交渉を行うこととした。

 交渉の席には,W社の営業部長,営業担当者とPMのBさんが参加していた。まず,筆者から現在の見積もり価格はこちらの査定結果に対して高くなっている旨を,根拠となる資料とともに説明した。こちらサイドとしては,価格交渉である以上,当然反論があるものと想定し,事前に入念な準備と論理武装を行って臨んだのだ。

 しかし,W社の反応は意外なものであった。W社の営業部長が最初は少々困った顔をし,多少の意見を述べた後,次のように切り返してきたのだ。「分かりました。2割引かせていただきます。これでいかがでしょうか?」。そう言い終わると,W社PMのBさんや営業担当者と顔を見合わせてお互いにうなずき,さらにこちらをむいて笑顔でうなずいたのだ。これを見た筆者の上長であるC部長は激怒した。

C部長:「2割も下げて赤字にならないのか?」
営業部長:「状況は大変苦しいのですが,御社のために頑張って下げています」
C部長:「2割下げても企業として適正な利益を上げていると言うことだな?」
営業部長:「適正かどうかは何とも言えませんが…赤字ではありません」

 それを聞くとW部長はますます激高し,次のように語った。

C部長:「御社は当社に対して,いつも適正な利益を確保した価格に2割上乗せした価格を出していると言うことだな。それならば,以後,御社との全ての契約案件について,一律2割カットした値から価格交渉を始めることとする」
営業部長:「ちょ,ちょっと待ってください。これには訳が…PMのB君が…」
C部長:「言い訳無用である。この見積もり書には一部上場企業たる御社の社印が押してある。会社として正式に提出されたものだ。今回の件は御社が当社をどのように見ているのかという表れである。この場で言い訳されても聞くことはできない」

 一度言い出したら必ず実行すると定評のあるC部長のことは双方よく知っていたので,この場ではどうしようも無いことは明白だった。W社は,筆者のプロジェクト以外に複数のシステム開発やハードウエア納入で同時に入札しており,これらすべての案件について2割引スタートとなってしまった。

 C部長はなぜ激怒したのか。C部長は,現場のPMから叩き上げで部長になった人である。常に現場を真剣勝負で渡って来たのだ。C部長にとってみれば,見積もりに関する価格交渉も真剣勝負の場の一つなのだ。

 そんな真剣勝負の場において,いきなり2割下げますという相手の態度が許せなかったのである。こちらが価格交渉を行わなければ,そのまま2割高い金額で契約を締結しようとしたのだ。プロの世界なのだから,見積もり金額といえども,提出した金額にはいかなる理由があろうとも自信を持って臨んで来いということでもあった。

 後で分かったことであるが,仕様の確認を行っている最中に,どうもW社PMのBさんに,筆者の後輩の一人からこちら側の概算予算規模が漏れていたようだ。Bさんとしてはその漏れ聞いた金額内でも出来ると思っていたが,価格交渉で値引きされることを考慮し,あえて2割上乗せして見積もりを営業部門に提出したのだった。

適正価格は信頼によって決定する

 価格交渉において合意価格を決定することは難しい。誰もが納得できる適正価格が決められないからだ。システム開発プロジェクトでは,見積もりの根拠として人月をベースにした値が使われることが多い。しかし,これはあくまで方便であって,本当の意味で適正価格を査定するためのツールではない。そのため,人月をベースにした価格交渉がうまくいかないケースは少なくない。

 しかし,現在のソフトウエア開発業界においては,一括請負契約と言いながらも,その査定根拠として契約内訳を人月で査定せざるを得ない状況となっている。自動車を購入するときに,その自動車作成過程に要した工数に応じた金額を払う人はいない。同様に,ある物を購入する場合に,その製造過程工数から金額を算定する事はきわめてまれなのだ。システム開発だけは,その過程に要した工数に換算して査定せざるを得ない状況となってしまっている。

 価格交渉は,お互いの信頼の上で成り立つものである。適正価格とは,発注側と受注側双方の信頼関係の下で決定されるものである。そこには,W社が行ったような失敗は無い。信頼関係があるからこそ,受注側は真剣勝負の見積もりを作成し,発注側もそれを真摯に受け止め価格交渉を行う。そして,お互いの妥協点を見つけて合意する。この合意点こそが両者にとっての適正価格であると考えている。

 こうやって合意することで,人月を頼りにした査定ではなく,システムの本質に沿った査定を行うことができるのではないだろうか。従来は,価格交渉を営業担当者だけで行うケースが多かった。しかし,急速に発達するIT業界において,営業担当者だけではその価格の妥当性を証明することが困難になりつつある。

 PMが価格交渉の場に登場する機会も少なくない。そこには,PMでなければプロジェクト中身に関する本質的な議論ができないという状況もある。営業担当者が何度説明しても首を縦に振らなかった顧客が,信頼するPMに説明されて一発でOKしたという例も多々ある。

 PMたるもの,信頼関係を築くことこそが,価格交渉を上手に進めるための第一歩である。そのためには,W社のように安易に値引きをしていては,顧客から本当の意味で信頼されることなど到底あり得ないのである。

上田 志雄
ティージー情報ネットワーク
技術部 共通基盤グループ マネージャ
日本国際通信,日本テレコムを経て,2003年からティージー情報ネットワークに勤務。88年入社以来一貫してプロジェクトの現場を歩む。国際衛星通信アンテナ建設からシステム開発まで幅広い分野のプロジェクトを経験。2007年よりJUAS主催「ソフトウェア文章化作法指導法」の講師補佐。ソフトウェア技術者の日本語文章力向上を目指し,社内外にて活動中。