1970年代には,捕鯨やイルカ捕獲をめぐって欧米諸国による「日本たたき」が頻繁に行われた。この時の“嫌な思い”により,多くの日本人は捕鯨反対運動に感情的に反発を抱くようになった。

 そもそも捕鯨反対への嫌悪感は,それを言い立てているのが米国やオーストラリアであることにも一因がある。両国は膨大なエネルギーを消費し,毎日牛肉を食べ,米国については京都議定書に調印すらしていない。やや乱暴な表現で言えば「おめえらに言われたかねえや」となる。

毛皮を着ながら捕鯨禁止を訴える歌手

 「捕鯨反対」といっても,捕鯨支持の科学的主張に対し,かつては非常に稚拙な反論しかしてこなかった。「『聖書』に四つ足以外の動物を食べてはいけないと書かれている」というのがそれだ。『聖書』を根拠にしても非キリスト教徒が大部分を占める日本人にはとうてい受け入れられるはずがない。

 あげく毛皮の大好きな歌手が,捕鯨禁止を訴えて来日をボイコットしたのを聞いた時には,開いた口がふさがらなかった。毛皮の好きな人間や,牛肉を食べ過ぎている国民に,なんで捕鯨のことをとやかく言われるのか。「お前らこそ生き物を殺すなよ」と,言い返したくなる。

 なぜ牛や羊はよくて鯨はいけないのか。ここのところの理屈が日本人にはわからない。私自身が捕鯨反対へ嫌悪感を強めたのは,この一連の出来事以来である。きてれつな主張と過激な行動は,もしかすると捕鯨反対を支持したかもしれない人をも捕鯨支持に追いやってしまう。

 相手が仏教徒であれ何であれ,関係なくキリスト教の原理を押しつけてくる態度。原理主義が存在するのは,別にイスラム教徒に限らない。

 己の価値観を絶対のものとみなして,その価値観で世界を支配することこそが「正義」なのだから,多くの国が米国などの偽善を指摘するのは理解できる。『文明の衝突』を著したハンチントンは,「米国は特殊な国だから,自国の利益が世界の利益になると信じている」と述べている。

 もし,捕鯨反対を普遍的なものにしたいのなら,日本人を納得させられるかどうかが課題なのである。その説得性を高める考え方の1つが,環境思想の中にある。「動物解放」グループの主張だ。