「技術の問題の解決策として、学校教育に触れたジャーナリストはあなたが初めてですよ」。

 2002年の秋に、ある学会の講演会場で初めてお目にかかった時、桜井宏氏は開口一番、筆者にこう言った。誉められた話を書くのは面映ゆいが、桜井氏の問題意識を示す発言なのでそのまま記載する。

 この学会で筆者は「情報システムのトラブルとその対策」といった内容の話をした。桜井氏は聴衆の一人であった。質疑応答の時であったと思う、「プロジェクトマネジメントの重要性を強調されたが、どう普及させるべきか」という質問が出て、筆者は「プロジェクトマネジメントの基本は中学生でも理解できる。できれば学校で教えたらいい」と答えた。筆者の答えを聞いた桜井氏は講演終了後、筆者の所にやってきて、冒頭のように声をかけて下さり、続けて意外なことを言った。

 「プロジェクトマネジメントどころか、日本の学校は技術についてほとんど何も教えていないのですよ」。

 技術系の記者として聞き逃せない発言である。これをきっかけに、時折、桜井氏に会って、日本の技術教育の問題について教えてもらうようになった。桜井氏とお付き合いした数年間は、筆者が経営と技術を結びつける新雑誌「日経ビズテック」を作ろうと悪戦苦闘した時期と重なっていた。

 桜井氏は三菱金属(現・三菱マテリアル)で取締役中央研究所長や米国三菱金属社長を歴任され、60歳を境に同社の技術顧問となる一方、社団法人日本工学アカデミーの専務理事として活動された。2002年から2006年3月まで、桜井氏が全力を傾けたテーマが「技術リテラシー(技術の素養)」であった。「技術の世界で50年飯を食ってきて、心残りは技術が技術者の世界に閉じていること」と語った桜井氏は、技術者だけではなく、日本人全体の技術リテラシーを高めるためにはどうしたらよいかを考えた。

 桜井氏が出した解答は、「学校教育で技術についてきちんと教える。社会に出た時に、技術に関する一定の素養が身に付いているようにする」というもの。「学校で教える」という筆者の発言はプロジェクトマネジメントに関してであり、技術までは考えていなかったが、桜井氏がわざわざ感想を言いに来て下さったのは、こうした背景があったからである。

 International Technology Education Association(ITEA、国際技術教育学会)という団体がまとめた『Standards for Technological Literacy』(邦訳・国際競争力を高めるアメリカの教育戦略、教育開発研究所)という報告書の存在を教えてくれたのは桜井氏である。たまたまこの報告書を見つけた桜井氏は一読して衝撃を受け、日本でも技術リテラシー教育に取り組まなければならないと決意した。筆者もこの本には驚き、紹介するコラムを何本か書いた。

 桜井氏は日本工学アカデミーで技術リテラシー・タスクフォースを作り、さらに日本学術振興会のプロジェクト「教養教育の再構築」にも参画し、技術リテラシーの問題に取り組み続けた。こうした活動の傍ら、桜井氏は筆者に「技術リテラシーの中に、IT(情報技術)の知識は欠かせないでしょう。ただ、ITというとすぐパソコン操作になってしまう。技術リテラシーの勉強会をやっていますから、本来の情報活用というテーマで今度話をして下さい」と依頼されたが、これは実現しなかった。

 2005年の年央であったか、技術リテラシー・タスクフォースが一段落し、その報告会が開かれたので筆者は出席した。それが桜井氏にお目にかかった最後であった。2005年当時、筆者は日経ビズテックの編集委員をしていたが、2005年後半から同誌のプロジェクトに暗雲が垂れ込め、その延命活動で手一杯となり、桜井氏に連絡をとらないまま2005年は終わってしまった。

 2006年3月、新聞の朝刊で筆者は桜井氏の訃報を読んだ。実は2005年末に経営判断が下され、日経ビズテックのプロジェクトは「継続するが編集部は解散させる」という不思議な状態になっていた。古巣の職場に戻されていた筆者は仕事にかまけ、通夜にも葬儀にも出席しなかった。

 それからまもなくして、東海大学出版会から『社会教養のための技術リテラシー』という桜井氏の著書が出版された。同書の後書きを読む、いったん体調を崩した桜井氏は静養後に同書を完成させ、出版が決まったことを喜んでいたという。残念ながら、出版を見届ける前に亡くなられた。

 2006年の秋になって、桜井氏から仕事の依頼が来た。無論、ご本人が連絡してきたわけではない。あるプロジェクトに関わっていた桜井氏は生前、「本件のメンバーに谷島さんを入れるように」と言い残していた。そのプロジェクトリーダーの方が「桜井さんからの依頼です」と訪ねてこられた。新規開発プロジェクトをやっていようが、古巣にいようが関係ない、いかなる状況にあろうと受けざるを得ない。

 それが『21世紀の科学技術リテラシー像~豊かに生きるための智~プロジェクト』である。「日本人が身に付けるべき科学技術の基礎的素養に関する調査研究」を目指したもので、技術リテラシーだけではなく科学のリテラシーについても、基本となる内容をまとめている。この3月、プロジェクトの報告書が発行され、さらに「科学技術の智プロジェクト」のWebサイトで公開される。

 筆者はこのプロジェクトで技術専門部会に所属し、技術に関する報告書の作成に関わった。報告書を出せたことで、桜井氏の依頼にひとまず応えられたと勝手に判断し、思い出話を書いた。

 最後に、日経ビジネスEXPRESS(現・日経ビジネスオンライン)に掲載した桜井氏のインタビュー記事を再掲する。2003年8月4日に「日本の技術教育で教えていないこと」という題名で公開したものである。

(谷島 宣之=経営とITサイト編集長)