6月に富士通社長になる野副州旦を「すごみのある容貌(ようぼう)顔」と書いたマスコミがあった。しかし24年前、野副が海外事業本部調査課長のときに会った筆者からすれば、以前に比べてずいぶんと柔和になったという印象だ。「地位は顔立ちを変える」のかもしれない。

 当時の富士通は、米IBMとOS互換ビジネスを巡り、自らの存亡を賭けた丁々発止の真っ最中。IBM渉外担当副社長であるディック・ダウドとやり合った海外事業本部長代理の鳴戸道郎は、細身で浅黒くエキゾチックな目鼻立ちの野副を交渉の場に同席させず、次の間に控えさせていた。

 こうして野副は、IBM問題や英ICL(現在の富士通サービス)立て直しの件で功績を挙げ“大英勲章第三位”を授与された鳴戸の薫陶を全身で受けた。社長就任会見で、社内には「定職がなかった」と語った野副。しかし実際は鳴戸の下でIBMとの交渉に携わり、鳴戸に次ぐ二代目ロビイスト(渉外担当)となった。

 野副がロビイストとして活躍したのは、秋草直之社長の時代だ。金額が折り合わず失敗に終わった上場子会社ニフティのソニーへの売却交渉、米IBMとのデータセンター標準化の技術提携など、M&A(企業の合併・買収)や提携は野副の出番だった。

 富士通社内では、コンサルティング業務を富士通総研へ集中化させるなど、リソースの「専門集団化」を仕掛けた。産業流通SEは富士通システムソリューションズへ、ソリューション共通技術SEは富士通エフサスに異動させている。さらに全国にあるSE会社をブロック化し、ブロック内での人材の流動化や得意分野を明確化。効率改善にも努めた。3月の富士通マイクロエレクトロニクスの分社化も野副の仕事だ。

 鳴戸は専務から副会長に転じた。野副は常務から社長の座を射止め(現在副社長)、師を超えた。その下地は、早稲田大学政治経済学部の先輩である富士通現会長の秋草直之が敷いた。秋草は、野副を試したのか将来を見込んだのか分からないが、野副を2002年にビジネス開発室長、03年にソフト・サービス事業推進本部長に就けた。ビジネスの現場に野副を放ったのである。そこで野副は期待に応えた。

 当時の富士通は、営業が競合に勝って取ってきた不採算のシステム案件で傷んでいた。野副はリスクマネジメント体制の確立やプロジェクトマネジメント力の回復に奔走し、 2004年度(2005年3月期)には400億円に達していたソリューション/SI部門の赤字を、2年で300億円も圧縮。営業利益率を04年度の2%から06年度に5%へ引き上げた。

 野副の身上は速さにある。単行本「雲を掴め─富士通・IBM秘密交渉」(日本経済新聞出版社)の中で、野副は「動作が異常に敏捷」と書かれている。“異常”の表現が面白い。「鳴戸がIBMの資料、と言ったらさっと出す。鳴戸の次の要求が何かを常に読んでいた。富士通にはいないタイプだ」。富士通でマーケティング畑にいたOBはこう話す。

 ただ社内外で大勢を占める野副評は少し辛口のようだ。「野副は器用だ。やらせたら何でもこなす。フットワークもいい。相手が何を望んでいるか、何を考えているかを察することが巧まずしてできる。しかし重厚さやカリスマ性とは縁遠く、軽い人間と思われる」。

 「社長の黒川博昭と、黒川の下で功績を挙げたといわれる野副の二人の功績は結局は“節約”だけ。新しい市場や商品を作ったのか」という周囲の声もある。「今の富士通には閉塞を打ち破る、信長型の社長が必要だ」(富士通の中堅社員)といった意見もある。しかし、野副の社長としての評価はまだ早いだろう。

 野副の利点は事業部のしがらみがないこと。となれば携帯電話やHDD、パソコンなどの事業は、これから分社化や売却もあり得る。ソフト開発やソリューション/SIといった事業も再編されるかもしれない。当然、ニューヨークでの株式上場も視野に入れているはずである。野副が信長型かどうか、今後の富士通の動きには興味津々だ。 (文中敬称略