世界的に知られた優れた観察力の持ち主といえば,コナン・ドイルが生んだシャーロック・ホームズであり,アガサ・クリスティが生んだ名探偵“灰色の脳細胞”を持つエルキュール・ポワロだろう。なぜホームズやポワロが次々と難事件を解決してしまうかというと,それは彼らが持っている卓越した観察力と推理力にほかならない。

 要求定義などの上流工程を得意とするDさんは,私が知るエンジニアの中でも観察力・推理力の達人の一人である。Dさんと一緒にある物流センターの現地調査をしたときのこと。私たちは,物流センターの担当主任に案内されて説明を聞きながらセンター内を歩いていた。  Dさんはコンピュータ端末を見つけると,そこに駆け寄って行って「これは何ですか?」と尋ねる。部屋の片隅にある古いプリンタを見つけても,壁に張ってある紙切れを見つけても,指差して「これは何ですか?」と尋ねてゆく。見つけたものすべてについて「これは何ですか?」と尋ねているといっていいくらいなのだ。

 Dさんは「企業の本社や管理部門は報告書やら何やらであまり役に立っていないものがどっさりありますが,物流センターのような現場には無駄な物なんてないんですよ。どんなに旧式のプリンタであっても業務に必要だからそこに置いてあるわけで,そういう意味では紙切れ1枚にも大概役割があるんですね」と言いながらそこにピンで留めてあるFAXを指差して「ほら,このFAXは返品連絡票のようですが,送信日と誰かが押したゴム印の日付の間に1週間もの隔たりがあります。たぶん,1週間分とか溜め込んでまとめてこの端末から手で入力しているのでしょう。このタイムラグの間の在庫は正しくないんじゃないでしょうか」と言って,すたすたと先に行ってしまった。

 同行してくださった情報システム部の課長さんの「そういうことになっていたとは知らなかった…ちょっとまずいなあ」というつぶやきが今も忘れられない。

 そのDさんとある電子部品メーカーの管理会計システムを構築したときのこと。ユーザーと初回のミーティングが済んで,本番稼働日をいつにしたらよいかという話題になった。するとDさんは「5月15日あたりじゃないでしょうか」と言うのだ。先方のマネージャはご自分の手帳を見て「ほんとだ,この日が良さそうです。でも,なんで分かったんですか」と怪訝な顔つきをする。

 以下はDさんの推理の種明かし。

 「さきほど拝見した損益月報の右隅の作成日を見ると第3営業日になっています。つまり,貴社において損益データが確定するのは第3営業日以降ではないかと思います。貴社の役員会は毎月第3週の金曜日のとのことですが,同じ週の月曜日に部長会がありますね。部長会の前にはこの管理会計システムを動かしたいでしょうけれども,5月は連休がありますし,データ送信のエラーとかトラブルのために中3日余裕を見ると,15日を表向きの本番とするのが適切かと思います。そして,貴社は3月決算ですから,次年度の最初の月次損益報告は5月になりますが,5月なら開発は間に合うと見込んでいます」。

 この管理会計システムは,予測通りデータ送信で小さなトラブルが発生し,中3日の予備日のうち2日を使った。そして,1日の余裕を残して予定どおり本番稼働を迎えたのだった。

木村 哲(きむら てつ)
ビーコンIT
コンサルティング部 チーフコンサルタント
1980年にIT業界入りし,パッケージ・ソフトウエアの販売を担当。1992年頃よりデータ・ウエアハウス,ビジネス・インテリジェンスの分野の事業を担当し,多数のパッケージソフトの輸入,企業導入を行う。2000年よりコンサルティング事業にかかわり,立場をそれまでのRFPを受けて提案する側から,要件定義/RFP作成をする発注側に転じる。発注する側,受ける側の両方の視点に立ったプロジェクト・マネジメントを得意とする。

■本特集に関連して,日経SYSTEMS 2008年4月号に特集「プロフェッショナルの現場 ユーザーに尽くし,ユーザーに信頼される」を掲載しています。ぜひ併せてお読みください。