中国でのオフショア開発は盛んになる一方である。リスクはあるが,コスト削減,要員不足解消,日本語の仕様書でOKという魅力は大きい。

 「中国オフショア開発見学ツアー」などに参加し,北京や上海,大連で大規模な開発センターを見学すると,大量のエンジニアが整然とシステム開発に取り組んでいる光景を目の当たりにする。カルチャー・ショックを受けた人も多かろう。しかし,現実の開発の現場は見学コースにあるようなきれいな現場だけではない。

 筆者の知人A氏は,中国のソフトウエア開発会社の若き社長である。日本の大学への留学経験を持つ中国人で,卒業後は日本のITベンダーに就職した。日本語はペラペラ,SEとしても基礎ができている。現在では独立して日本と中国にそれぞれ会社を持ち,中国では北京と上海で事業を展開するやり手だ。

 あるとき,A社長の来日に合わせて筆者は仕事の相談をする予定があった。ところがA社長から「日本から請け負った仕事が厳しい状況にあり,中国を離れられない。面会を1カ月先に延期してほしい」とのメールが届いた。1カ月後に来日したA社長に会ってビックリした。げっそりとやせて,形相がすっかり変わっているではないか。この1カ月に何があったのか聞いた。

 A社長が経営するB社は,日本のベンダーX社から業務システムのオフショア開発を受託していた。X社のシステム設計に遅れが生じ,そのしわ寄せがそのままB社にきたのだという。

 開発スタートが遅れたのに,納期は計画通りを要求された。スタート時点ではまだうまくマネジメントする自信があり,遅れを吸収することでB社の実力をアピールできるとA社長は考えていた。ところが,開発スケジュールの中盤を過ぎてもX社から仕様変更の指示が矢継ぎ早に出されて,終息する気配がなかった。さすがのA社長もこんな状態ではスケジュールをキープするのは無理だと判断し,X社に仕様変更をなくすよう求めた。ところがX社は「顧客の要求だから聞かざるを得ない。なんとか頑張ってくれ」の一点張りだった。

 A社長は腹を括る。1カ月の納期延長をX社に飲ませるのと引き換えに,突貫開発を約束した。X社の案件は北京の会社で開発していた。上海の会社からも精鋭のエンジニアを北京に集め,突貫チームを作り,自らも会社に寝泊りして陣頭指揮に当った。

 中国人のエンジニアたちは日本人よりも自己主張が強い。「なぜ,こんな無茶なスケジュールでやらなければならないのか?」「日本の仕事だから儲けが多いはず。もっと賃金を出せ!」といったクレームは日常茶飯事である。A社長は持ち前のリーダーシップと粘りと腕力でなんとか押さえ込んだ。

 クレーム以外にもトラブルは続いた。上海から連れてきたメンバーのうち数人が「こんな長時間労働は耐えられない」と夜逃げしたのである。それを上海まで追いかけて,なんとか説得して北京に戻し作業を続けさせた。

 あるときは昼飯時に浙江省(黒酢の名産地)の出身者がどんな料理にも黒酢をかける習慣を北京出身者にからかわれて,大乱闘になった。北京人と上海人はお国自慢で頻繁に小競り合いを起こした。プロジェクトの過酷さから来る,このようなストレスの暴発はいくつもあった。ストレスを発散させるために,A氏は定期的に大宴会を開き,好きなだけ酒を飲ませた。すさまじい量の空き瓶がころがった。A社長は下戸で一滴も飲めない。飲めなくてもエンジニアたちを統率するためにウーロン茶で最後まで付き合い,社長の威厳を示したそうだ。

 このような泥臭いマネジメントを粘り強く行うことでチームをまとめ,無事に納品に漕ぎ着けることができた。システム開発の人間臭さは,中国でも日本でも変わりがない。オフショア開発で納品されたプログラムの裏にはこのようなドラマもあるのだ。

永井 昭弘(ながい あきひろ)
1963年東京都出身。イントリーグ代表取締役社長,NPO法人全国異業種グループネットワークフォーラム(INF)副理事長。日本IBMの金融担当SEを経て,ベンチャー系ITコンサルのイントリーグに参画,96年社長に就任。多数のIT案件のコーディネーションおよびコンサルティング,RFP作成支援などを手掛ける。著書に「RFP&提案書完全マニュアル」(日経BP社)