IT業界に就職して,20年になる。20年のキャリアの中で多くの「すごい現場」に立ち会う経験をしてきた。このコラムではその経験を紹介していく。その前に初回は,自己紹介を兼ねて私自身がどんな現場を歩いてきたか,振り返ってみたい。

 筆者は大学卒業後,日本IBMにSEとして入社した。面接で「営業とSEとどちらをやりたいか?」と質問されたので「コンピュータの会社だからとりあえずSEをやってみるかな」程度の軽い気持ちだった。大学では政治学を専攻したいわゆる文系SEである。

 配属先は金融機関担当の事業部門。ある地方銀行の担当を命じられた。小規模な地銀だったので新人の筆者を含めわずか3人のSEで勘定系,情報系,ネットワーク,ディーリングシステムなど当時の銀行システムのほとんどすべてを担当した。最初は都市銀行担当に配属された同僚をうらやましく思ったものだ。しかし,小規模だからこそ顧客のシステムや組織全体を見ることができた。顧客との交渉も任されることが多く,コミュニケーション力が鍛えられた。

 転機は入社4年目に訪れた。友人から一緒に会社を立ち上げないか,と誘われたのである。起業という言葉には魅力があったが,その時期は3次オンライン提案の競合の真っ最中。「このタイミングに抜けるわけにはいかない」という思いがあった。

 そこで友人には「1年後に参画する」と先に起業してもらい,上司には「1年後に辞めます」と伝えた。1年後の退職宣言は最初は冗談と受け取られた。しかし,半年経っても意志は変わらなかったので,本気であることが徐々に周りに伝わった。上司は筆者の担当を都市銀行に替えた。新たな担当先の仕事はアセンブラのバッチ・プログラムのメンテナンスである。

 これは厳しかった。いろいろやった地銀でも,プログラミングだけはあまりやっていない。アセンブラの経験は皆無である。退職宣言に対する嫌がらせかと思ったが,こちらにも意地がある。客先では縮小コピーを重ねて作ったコマンドのカンニングペーパーを見ながら,プログラミングした。家では毎晩マニュアルを読んだ。アンチョコをこそこそ見ながらプログラミングしているときに,お客さんに声を掛けられるとビクビクしたものだ。

 悪戦苦闘の半年が過ぎ,退職が近づいたある日,上司が「お前はよく頑張った」と言ってくれた。聞けば,都市銀行の担当者から筆者の担当を延長してほしいとの要望があったという。もし途中で投げ出していたら上司は「そんなことで起業などできるか」と一喝するつもりだったそうだ。この言葉にはグッときた。上司の厚情への感謝,IBMへの未練,きつい仕事が終わった解放感,独立への高揚感などいろいろな気持ちが交錯した。円満退職できたことは,起業後の人脈形成に大きく影響した。プログラマを経験したことも,その後コンサルティングを行っていく上で非常に役に立っている。

 そして現在のイントリーグに参加。1996年に社長に就任した。現場に常駐してネットワーク管理やユーザー・サポートを行う人材を育成する一方で,RFP(提案依頼書)を書いたり,ベンダー選定を請け負ったり,開発プロジェクトのマネジメント支援をしたりといった,ITコンサルティングを商売としてきた。

 無名の会社で,営業には苦労した。求人広告を出しても応募がない時期もあった。見下されて悔し涙を流したこともあった。しかし,いろいろなご縁があって大企業,外資系企業から地方の中小企業まで様々な規模・業種・業態の顧客にお世話になることができ,今に至っている。

 こんな筆者が次回からシステム開発の現場を歩く。どんなものを見たか。どんなことを感じたか。どうぞお楽しみに。

永井 昭弘(ながい あきひろ)
1963年東京都出身。イントリーグ代表取締役社長,NPO法人全国異業種グループネットワークフォーラム(INF)副理事長。日本IBMの金融担当SEを経て,ベンチャー系ITコンサルのイントリーグに参画,96年社長に就任。多数のIT案件のコーディネーションおよびコンサルティング,RFP作成支援などを手掛ける。著書に「RFP&提案書完全マニュアル」(日経BP社)