薬品卸業の東邦薬品は2006年1月,基幹システムの一括移行を試みた。その2カ月前からリハーサルを繰り返し,移行作業の手順や時間を見直して本番を迎えた。ところが,移行後に新システムの性能テストを実施しても,期待していたほどの性能が出ない。移行を指揮していた同社の情報子会社である東邦システムサービスの桜井俊春氏(取締役 情報システム部 部長)は,サービス開始を1カ月延期することを決断した――。

 リハーサルを繰り返し,移行計画書の精度を高めていても,本番でトラブルが生じてしまうことはある。本番データは一般にリハーサル・データよりも大容量で,含まれるデータのパターンが多岐にわたる。リハーサルでは問題なくても性能が出なくなったり,データ移行に失敗したりすることがある。また,リハーサルを重ねた過信・油断のためか,もしくは本番の緊張感ゆえか,作業要員が操作ミスや確認漏れをしてしまうこともある。

 作業を始めてからサービス開始までの時間は限られている。トラブルの状況を迅速に掌握しなければならない。間断なく対処法を決断することが求められる。本番移行の上手な現場には,迷わず決断するための仕掛けや,的確に情報を共有する工夫が満ちている。

基準が決まっていれば迷わない

 迷わず決断するための仕掛けとは,作業の継続や中止を判断するための「基準」である。システム移行は,カットオーバーを一直線に目指す開発プロジェクトと違って,うまくいかないと判断すれば移行前の状態に切り戻すという決断を迫られることがある。しかし,数時間後,場合によっては数十分後には業務再開が迫る移行の現場では,進むか戻るかを悠長に議論する余裕はない。

 何が起きたら切り戻すのか――。これを明確に決めておくのが,ここで言う基準である。

 前述した東邦薬品も,基準を用意していた。同社が用意していたのは,新システムの「サービス開始基準(service in criteria)」。具体的には「トランザクション処理を1秒間に最大200件以上,伝票印刷を同42枚以上できること」というもの。2006年1月に実施した本番移行では,伝票印刷のスループットがこの基準値を満たせなかったために,サービス開始を見送ったのだった(図1)。

図1●性能に関する「サービス開始基準」を決めていたから迷わず移行延期できた
図1●性能に関する「サービス開始基準」を決めていたから迷わず移行延期できた
東邦薬品の森久保光男氏は,基幹システムの移行を進めていたが,最終的にサービス開始を1カ月延期した。「現行システムの2倍以上のスループットでなければ移行しないという基準をあらかじめ明確にしていたので,延期するのに迷いはなかった」という
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 東邦薬品の森久保光男氏(取締役 システム・ロジスティックス本部 本部長)は,「(サービス開始の)基準が明確だったので,移行延期の決断に迷いはなかった」と語る。

 移行延期から1カ月。ベンダーの協力を得てチューニングを重ね,無事にサービス開始基準を満たし,2006年2月に新システム上でのサービス開始にこぎ着けた。

 実は,桜井氏らは本番前から新システムは性能不足になる懸念を抱いていた。最初のリハーサルの直後に全国の拠点の協力を得て実施した負荷テストで,帳票サーバーに負荷が集中。プリンタ印刷テストに失敗していたからだ。それでもあえて移行を試みたのは,負荷テスト以降に高速化のチューニングを繰り返していたからだ。リハーサルと本番でのデータの違いで結果が好転するかもという期待もあった。それでも万一に備えて用意した基準が功を奏したのだった。

 こうした基準は,サービス開始の瀬戸際だけでなく,移行過程の要所要所に設けたい。たとえ切り戻すことになったとしても,早い時点であれば余裕を持って作業ができるからだ。

 複数のチェック・ポイントに基準を設ける現場は増えてきている。第6回で紹介した常陽銀行や第7回で紹介したCSKシステムズは,いずれも複数のチェック・ポイントで判定会議を開き,基準のクリアを検証しながら移行作業を進めて成功に導いた。

 もっとも,どんなに明快な基準があろうと,いざ切り戻しや中止をすると経営陣や業務担当者から叱責や反発を受けることにはなるだろう。信頼関係を保つには「切り戻しや中止の決断だけを報告してもダメ」と,移行のコンサルタントを務めるプロバインズの草苅徹氏(ITサービスマネジメントスペシャリスト)は指摘する。「次にどうするか,その対策とスケジュールまで考えて報告すれば,ユーザー企業や業務担当者の理解を得やすい」と言う。