大学時代の夢は有機化学者になることで、日中は勉強し、夕方から学費を稼ぐためにパートタイムで働いた。目から鱗が落ちるとはこのことで、そこでビジネスの面白さに目覚めてしまい、大学の専攻を経営学に変えた。文系卒という点では、米国企業の多くのCIO(最高情報責任者)とは異なるかもしれない。だが、CIOが技術を熟知するのは当然としても、生粋の技術者である必要はない。技術とビジネスの双方に精通していることが、現代のCIOには不可欠だ。

 マリオットでは技術者を「ビジネス技術者」と呼ぶ。IT(情報技術)部門の社員にもビジネスに対する眼識を研ぎ澄ますよう求めているからだ。IT部門は経営戦略の補助に徹する黒子でもなければ、単なるコスト削減の切り札でもない。経営戦略を描く立場にある。当社では意思決定の場にIT社員が同席することを原則としている。

 私のリポートラインがCFO(最高財務責任者)ではなく、実務の中枢であるCOO(最高執行責任者)にある理由もそこだ。ホスピタリティー業界で効率的なIT戦略を練るには、実務の最前線で起こる問題を把握していなければならない。ビジネス技術者ならぬ「ビジネスCIO」というわけだ。

 同じことはビジネス側の社員にもいえる。彼らもITの素養を求められる。ITに何ができるのかを理解すると同時に、ITでは何ができないのかを知ることが重要だ。さもないと、ITが必要以上に幅を利かせ、顧客の要望と乖離する結果を招く。IT部門がプロジェクトを立ち上げる際は、必ずビジネス側の社員にも入ってもらう。

もてなす心を忘れず、ITの行き過ぎに注意

カール・ウィルソン氏
カール・ウィルソン氏
世界的なホテル大手のマリオット・インターナショナルは、1927年にマリオット夫妻が米国ワシントンDC に開いたドリンクスタンドが発祥。現在は70の国・地域に「マリオット」「ザ・リッツ・カールトン」「ルネッサンス」「レジデンス・イン」「フェアフィールド・イン」などのブランド名で約2900の宿泊施設を展開。2006年度の売上高は122億ドル、従業員数は約15万人。

 顧客にもこうした変革の胎動を感じとってもらえるはずだ。例えば2007年、IT部門とブランドマネジメント部門の二人三脚の号令の下、客室を「パーソナルデジタルセンター」に変身させる薄型デジタルテレビを導入した。パソコンやiPod、デジタルカメラといったデジタル機器とのシームレスな接続環境を整えた。出張者はノートパソコンをテレビにつなげば32インチの大画面で、翌日のプレゼンテーション用のパワーポイントの資料を確認できる。画面を2分割して片面でテレビ番組やDVDを鑑賞するなど、仕事の生産性と娯楽性を同時に高めることもできる。ITが戦略上の黒子から戦略を設計する立場に脱却したからこそ、業界に先駆けてこのサービスを実用化できた。

 CIOとしての最優先課題は、人材交流を推し進め、ITとビジネスの二足のわらじをはいた社員を育てることだ。さきほどのサービスは競合他社が追従するまで2~3年のアドバンテージしかないかもしれないが、人材交流による変革は持続的な競争力の源になる。だから、IT社員を事業部門に出すこともあれば、逆もある。これまでの専門領域から外れた課題を与えることによって社員の守備範囲を広げることに注力している。

 IT部門は年1回、CFO(最高財務責任者)を交えた予算審査を行う。かつてはIT部門の予算の精査に議論の100%の時間を費やした。コスト削減を主目的とした新システムの開発や、既存システムの運用費削減など、コストセンター的な発想から抜け切れなかった。会議後は疲れ切り、一杯やってすぐベッドに潜り込みたい気分になったものだ。それが今や事業拡大のためのIT戦略の議論に75%の時間を使うようになった。

 一方でITの行き過ぎに注意している。米国内のマリオットでは、顧客がスマートフォン「ブラックベリー」などを使ってチェックインできるシステムを導入した。先ほど紹介したテレビを使えば仕事にも娯楽にも困らない。従業員と接触しなくても宿泊できるわけだが、マリオットでは何よりも、従業員が顧客を暖かくもてなすことを是とする。ITでできることと顧客が本当に望むことが乖離しないよう、バランスを取ることが重要だ。

 マリオット傘下のザ・リッツ・カールトン東京が今春オープンしたが、宿泊客は自分が誰なのかを従業員が知っていて当然という期待を抱く。系列のシナジーを生み出すためにマリオットの予約システムなどのITを共有しているが、日本でさらに足場を固めるためには、日本人特有の高度な期待と要望に応えていく必要がある。技術水準が高い日本人の期待を上回るIT戦略を構築するためにも、ITに何ができて何ができないのか、そのトレードオフを理解することが欠かせない。

カール・ウィルソン氏 米マリオット・インターナショナル 上級副社長 兼 CIO
米食品会社で情報マネジメント担当副社長を経て、米製紙会社でCIOを経験。1997年に米マリオット・インターナショナルに入社、同社初のCIOに就任。米AT&Tのアドバイザリー・カウンシルや米マイクロソフトのグローバル・エグゼクティブ・ラウンドテーブルのメンバーも務める。