ビジネスに「リスク」はつきものである。しかし,リスクを口頭で議論することは簡単ではないし,意思決定の品質を高める上で有効ではない。人によってリスクの捉え方が異なるほか,リスクがビジネスの計画や目標に与える影響を定量的に測れなければ,実のある議論,品質の高い意思決定はできない。今回は,リスクを定量化し,リスクを踏まえて戦略案を評価したり,複数の戦略案を的確に比較検討したりするためのテクニックを解説する。
宮本 明美
インテグラート 取締役

ビジネスにおける「リスク」とは,将来の不確実性によって「計画と実行結果がずれる可能性」を指します。これから実行に移すビジネスに関して,情報や知識が完全ではなかったり,事業環境の変化を予測しづらかったりすることから,計画や目標から不確実性をなくすことは不可能です。品質の高い意思決定を行うためには,リスクをいかに的確に捉えるかが重要なポイントになります。
図1に示す通り,事業の不確実性にはさまざまな要素があります。事業の計画や目標を立てる際は,これらの不確実性に対して何らかの仮説や前提を設けています。それゆえ,事業の結果が計画通りにならないことがほとんどです。
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図1●事業の不確実性要素の例 |
ネガティブなリスクだけでなく,計画を上回る“チャンス”もある
さて,本連載の初回で「意思決定の品質を高める6つのポイント」の1つとして「不確実性を含む情報が,信頼できる形で設定かつ説明されていること」を挙げました。皆さん,その重要さは理解していることと思います。
しかしながら,ビジネスの計画立案や意思決定の現場において,ともすればリスクはネガティブに捉えられがちです。事業計画や戦略案にリスクがあると「計画通りにならない」「実行には不向き」というイメージを持たれやすく,その結果,「リスクはできるだけ伏せておこう」と考える傾向が強いようです。どんな計画にもリスクはつきものなのですから本来隠す必要はありませんが,過剰に反応してしまいがちです。
一方,実行結果が計画を上回る“チャンス”が生まれる場合もあります。例えば,新製品が計画を上回る売れ行きを示すこともあるはずです。その場合,生産量が需要に追い付かなくなってチャネルや顧客の期待に応えられず,信頼を失うかもしれません。また,無理な計画で条件の悪い生産設備の追加投資に迫られるかもしれません。いずれも大きなロスにつながる可能性を秘めています。
ですから,不確実性を踏まえた意思決定は,悪い結果に備えるだけでなく,チャンスを生かすためにも有効です。ここでは,実行結果が計画を上回る場合も含めて,リスクを「計画と実行結果がずれる可能性」と定義します。
では,リスクが見えないと,意思決定にどのような問題が生じるでしょうか。本連載の初回から取り上げてきたA社の新事業プロジェクトを題材に,一緒に考えてみましょう。富裕層男性向けの新ブランドを立ち上げるA社の新事業プロジェクトでは,デパートや化粧品取扱店など既存の販売チャネルを生かした「従来案」と,インターネットをチャネルとする「見直し案」の2つを検討していました。ただし,十分な検討や情報の共有が行われておらず,トップダウンによる意思決定の結果は,現場のプロジェクト担当者の不信感を招いていました。トップと現場の間にある意識のずれは,どうも「リスク」の捉え方に起因するところが大きいようです。
A社佐藤課長の葛藤◆リスクは隠すべきか,見せるべきか?
大手化学メーカーA社コーポレートIT部の鈴木主任とその上司である佐藤課長は,新規事業プロジェクトを管轄する部門の責任者である田中本部長の部屋を訪れていた。佐藤課長と鈴木主任は,2人で行ったフレーミングの結果である「ビジョン・ステートメント」や「ディシジョン・ヒエラルキー」,戦略案の策定結果である「ストラテジー・テーブル」を田中本部長に説明した。
「なるほど。君たちが整理した内容は非常に分かりやすいねぇ。確かに,これまでの議論や情報共有は十分でなかったかもしれない。君たちが利用した方法論で検討すれば,もっと情報やアイデアが共有されるようになり,納得感のある意思決定ができる可能性はあるだろう。しかし,我が社の状況を考えると,これ以上,プロジェクトの計画に時間をかけるわけにはいかんのだよ。一刻も早く実行に移さねばならん」
田中本部長は,自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。超多忙なスケジュールの中,新事業プロジェクトについての提案をしたいという2人のために時間を割いてくれたことからも,田中本部長にとって,このプロジェクトの成否が重要な関心事の1つであることがうかがえる。
「ですが,従来案でプロジェクトを進めるのは大きなリスクがあると考えます。私たちが従来案について最も懸念しているのは,利益率の悪化を回復できないリスクです」
既存の小売店チャネルを利用する従来案を実行した場合,新ブランドを立ち上げても,リベートや報奨金制度を現状とかけ離れたものにすることはできない。それゆえ,「利益率を回復できないリスクがある」というのがプロジェクト担当者や田中課長の考えである。今回の新規事業プロジェクトの目的の1つは,悪化し続けている既存チャネルの利益率を回復させることなので,田中課長らが指摘するリスクはプロジェクトの成否にかかわる。
「しかし,リスクという点では,見直し案は別の意味でリスクが高すぎると思わないか? 新しい顧客層に新しいチャネルでアプローチするというのは,非常にリスキーだと思わないかね」
田中本部長は,A社が十分な情報を持たない富裕層男性の顧客に,経験のないチャネルを利用する見直し案のリスクを懸念しているのだ。田中本部長は打ち合わせ時間の終わりが迫ってきたころ,「見直し案でプロジェクトを進めた場合,我が社がこれまでに培った経験や知識をどの程度生かせるのか,考えてほしい」と2人に宿題を出した。
「どうでしょう。一度,それぞれの案のリスクについて,整理して,比較してみては?」
田中本部長との打ち合わせを終えて,部屋を出た後,鈴木主任が佐藤課長に提案した。鈴木主任は,田中本部長と佐藤課長のやり取りを聞いている中で,両者がそれぞれの案のリスクを最も気にしていることに気付いた。しかしながら,両者の言う「リスク」は少し意味が違っているようにも感じられた。全く別の種類のリスクを指摘し合っていて,それらを同じ基準で比較しない限り,議論は平行線とならざるを得ないとも思った。
「ん~,それはそうだろうが,そもそもリスクを比較するなんて,できるのだろうか。それに,計画案にリスクがあることを示したら,出るはずのゴーサインも取り消されてしまうよ」
これまでA社の経営会議では,戦略案が成功した場合を想定した議論や説明がなされ,失敗した場合や計画通りにならない場合について説明することはタブーとされてきた。新事業プロジェクトについても,従来案と見直し案それぞれの利益額や利益率の見込みについて,議論や共有がされてきたが,両案のリスクについては会議の中で話し合われなかった。その理由は,「リスクについて語るのはタブーである」という暗黙の了解によるもののようだった。
「でも,今回のケースでは,リスクについて説明や議論がされない限り,ベストな意思決定はできない気がするのです。それぞれの案にリスクがあると懸念されているのに,リスクについて検討や議論がされないままでよいのでしょうか」
佐藤課長は,鈴木主任の指摘はもっともだと思った。しかし,どうやったらリスクを議論したり,比較したりできるのか。佐藤課長には見当がつかず,途方に暮れるばかりであった。