「伝家の宝刀」という言葉がある。広辞苑によれば「代々家宝として伝わっている名刀。転じて,いよいよという時以外にはみだりに使用しない,とっておきの物・手段など」。つまり,のっぴきならない窮地に立って初めて抜くのが伝家の宝刀ということになる。

 だが,意地悪な言い方をすると,めったに抜いたことのない刀を,いざというときに使えるものだろうか。余りに危険すぎて,抜きたくても抜けないのではないか。伝家の宝刀とは,そういうジレンマを抱えた存在である。

 実は情報システムのトラブルシューティングの世界にも,この「伝家の宝刀」と言うべき対策がある。筆者がSE時代に担当していた銀行のシステムでは,独自開発した障害復旧機能の1つである「朝一リカバリー」の使用が,まさにそうだった。

 朝一リカバリーの仕組みはこうだ。毎日,業務開始以降のすべての取引情報をログファイルにため込んでおき,もし業務時間中に障害が発生してデータが壊れたら,まず前日夜にバックアップしたデータをリストアする(本番用データベースに戻す)。さらに,ログファイルから当日の取引情報を自動的に読み込み,リストアしたデータベースに順次反映して,障害発生時点の状態にデータを復元する。データをリストアした時点で,当日の“朝一”の状態に戻るので,この名が付いた。

 この機能を「伝家の宝刀」と呼ぶようになったのは,本番システムの稼働後,数年間にわたって一度も使用しなかったからである。障害が発生してもこの機能は使わず,取引情報を手作業で入力することで,難を逃れてきたのだ。

 しかし,その伝家の宝刀を抜く日がついにやってきた。ある繁忙日の業務終了直前のこと,ディスクがクラッシュし,当日入力した大量の取引情報にかかわるデータがすべてパアになったのである。

 トラブルの報告を受け,筆者たちは緊急対策会議を開いた。そして,いつもの押し問答が始まった。

 「今日の取引情報はどうやって復旧する?」

 「手作業で再入力だろう」

 「繁忙日だから,取引の数が膨大だ。手作業では時間がかかりすぎるから,朝一リカバリーを発動するしかないな」

 「それは危険だ。確実性を考えれば手作業で入力すべきじゃないか」

 いつもと違い,このときは責任者である上司が,腰が引けた筆者たちを一喝した。

 「ばかやろう。本番で使用したことがないといっても,散々テストしたんじゃないのか? それとも自信がないのか?」。

 上司がぎろりと筆者をにらむ。「い,いえ。もちろん自信は…あります…」。

 真っ赤な嘘である。自信なんて,あるはずがない。確かにテストは何度も行った。しかしテストはあくまでテスト。本番で一度も使ったことがないのに,自信を持てという方が無理な話だ。

 だが結局,「自信あり」が決め手になって,ついに伝家の宝刀を抜くことが決まった。結果はどうだったか。

 最終的には,データは一応復旧した。だが刀が冴え渡ったとはとても言い難い。エラーで復旧処理が何度か中断し,処理終了後も一部データの不整合が発生したので,パッチ(データ修正プログラム)で何とかしのいだのである。

 手作業とどちらが早かったかというと微妙なところだ。ただ,はっきり言えるのは,冷汗をかきながらマシンに張り付いて復旧処理に携わった筆者たちが,ボロボロに疲れきった,ということである。

 筆者は以降,二度と伝家の宝刀を抜くまいと決めた。しかし理由を聞かれても,自信がないからとは言えない。だからこう答えたものだ。「良い刀は鞘に収まっているものですよ」。我ながらうまい言い訳だったと思うのだが,どうだろう?

岩脇 一喜(いわわき かずき)
1961年生まれ。大阪外国語大学英語科卒業後,富士銀行に入行。99年まで在職。在職中は国際金融業務を支援するシステムの開発・保守に従事。現在はフリーの翻訳家・ライター。2004年4月に「SEの処世術」(洋泉社)を上梓。そのほかの著書に「勝ち組SE・負け組SE」(同),「SEは今夜も眠れない」(同)。近著は「それでも素晴らしいSEの世界」(日経BP社)