「金持ちになると初代は家に凝り,2代目になると衣類に凝り,3代目で食に凝り,だいたい3代目で資産を失い没落する」と言われている。平成になってから日本では食に凝る人が増えてきた。食通(グルメ)と呼ばれたい人は,食材として天然物を重視し,養殖物や栽培されたものをさげすむ傾向がある。

 だが,もし全人類がそうした嗜好をもったら地球はどうなるのであろうか。これを改めて考えさせられたのがマグロ問題である。

海はもはや“広大”ではない

 日本人は魚が好きだ。ところが世界的に漁獲高が減少しているのみならず,急速に経済力をつけている中国が従来の川魚から海の幸へと食卓の嗜好を変えていることから,少ない海洋資源の分捕り合戦が懸念されている。特に中国でのマグロの需要の高まりは,刺身やすしネタの価格高騰を招きかねない。

 中国では既に地下資源の確保が主要な外交テーマだ。資源に限りがあるという前提のもとで,できるだけ石油やその他の資源を自国に持ってこようという外交姿勢。これをあまりに露骨にやられると日本人としても焦ってくる。このエネルギー方面での警笛がマグロ問題にもリンクしているように見える。

 しかしマグロ漁業についての報道には,どうしても違和感を覚える。それは漁獲高が単純な分捕り合戦になっていることである。漁獲高を増やすには,高度な漁業技術の開発か,人があまり出かけていかなかった海域への遠征しかないという。これは魚の量そのものを増やそうという発想ではない。狩猟採集世界の発想からあまり変化していない。なぜ漁業界には今に至るまで狩猟採取的な世界が続いてきたのであろうか。それは海洋の持つ広大さゆえであった。

 『緑の世界史』を著したクライブ・ポンティングの試算では,ツンドラの中,3家族15人が生きていくのに必要なトナカイの数は1500頭であるという。1500頭のトナカイのためにどれぐらいの土地が必要になるのだろうか。アフリカの場合だと1500~2000頭のシマウマは2万haの草原に生息しているとされている。これを同じ理屈で言えば,2万haに15~20人の人間が存在できるだけとなる。狩猟採集で生きていく以上,人口は草食獣を養う草地面積によって一定の数に制限される。

 人間の歴史とは,この自然の制約を打ち破っていく過程である。狩猟採集だけで養っていける地球人口が現在のものよりも大幅に少ないことは容易に想像できるだろう。

 翻って漁業を見れば,遠洋漁業など,基本的にやっていることは有史以来同じである。つまりそこに生息する獲物を捕っているだけだ。海洋の持つ広大さが今までそれを補ってきたのだろう。しかし今や世界人口は70億にもなり,しかも経済発展を遂げつつある国によってより多くの海洋資源が食卓に上ろうとしているのである。海は今までのように広大ではなくなった。