「自分を律しろ,といっても,意識だけではなかなかできない。だって私自身がそうだったんですから。そこで環境整備(本誌注:オフィスを掃除し整理整頓すること)なんです。掃除や整理整頓は体を動かすだけだから,やろうと決めれば,とりあえずできる。掃除を習慣にしていると,自己管理とか,社内の雰囲気とか,いろいろな物事が良い方向に動き出すんです」。

 これは,文具の販売やオフィス刷新の提案業務を手掛ける山崎文栄堂の山崎登社長の言である。

 10年ほど前まで,山崎文栄堂は渋谷の一角にある文具店だった。1995年,20代で社長業を継いだ山崎登社長は赤字経営を脱するチャンスを得るべく,オフィス文具通販であるアスクルの代理店制度「アスクルエージェント」に登録。いわゆる「地べた営業」で1000件に及ぶ法人顧客を開拓すると共に,社員の採用,業務の仕組みの整備,グループウエアや顧客データベースの構築など,業容拡大に向けた策を敢行してきた。

 その甲斐があって売上は急速に拡大している。山崎文栄堂の社員数は9月現在26人。2007年8月期の売上高は29億円である。一人あたり売上高1億円以上を達成しており,かなりの業務効率と言えるだろう。

 記者は業務改革とITの話を取材しようとしていたのだが,山崎社長は月に一回,社員全員で実施する掃除や整理整頓――「環境整備」の話題から始めた。最初のうちは正直戸惑ったが,その意義や理由を聞いていくうちに少しずつ理解が及んできた。業務改革やIT活用のためには,この「お掃除」が欠かせなかったようなのである。

掃除や整理整頓が複合的な効果を生む

 山崎文栄堂にとって,この環境整備はチーム・ビルディングやコミュニケーションの機会になっている。役員と社員が一緒になって手を動かしていると,仕事とは直接絡まない会話が生まれる。仕事の話はもちろんだが,何気ない談話が社内の雰囲気を良くすることは説明するまでもないだろう。「どんどん無駄話をすればいい」と山崎社長は付け加える。

 掃除や整理整頓を通して資料を見つけやすくするなど,業務への直接的な効果も当然ある。ホワイトカラーの仕事では,資料を探すためにかなりの時間が費やされている。国内外で様々な調査データがあるが,山崎社長は「ホワイトカラーは1日のうち1時間は資料を探すのに費やしている」というデータを引用しながら,整理整頓の重要性を強調する。取材対応中,整理整頓に便利な文具をさりげなく紹介したりと,敏腕営業マンの片鱗もちらつかせる。なお,山崎文栄堂はこうした自社の整理整頓ノウハウを用いて,外部企業にもコンサルティング・サービスとして展開している。

 環境整備は掃除や整頓といった物理的なものにとどまらない。環境整備には,「グループウエアにこの先数週間の予定が入っているか」といった,社員の仕事スタイルという“環境”整備も含まれている。

 同社は一連の環境整備で実施すべき活動をチェック項目としてリストアップしており,その出来具合を点数に置き換える。その点数は,大なり小なり人事評価の材料となる。

 これをITの利活用という視点から見れば,グループウエアへのデータ登録を人事評価に結びつけることでIT利活用の動機付けにしているわけだ。もちろん「データ共有が業務に必要である」という大前提のもとで,ルール設定していることは言うまでもない。

 「月に一回の環境整備の直前に,『減点になってしまうのは嫌だから,とりあえず分かっている範囲で入れておけ』。こんな消極的な理由でも構わない。とにかく,先の予定をグループウエアに登録する,という動作を社員に根付かせるのが大切だ」(山崎社長)。こうした狙いが功を奏したようだ。山崎社長は「一連の業務改革やIT整備を始めて数年経つが,ここ1年で急に定着してきた。ようやく本格的な情報活用へと社のステージが上がりそうだ」と感触を語る。

 まずは体を動かすことから入る。とりあえず動作をさせる。頭や心は後からついてくる。山崎文栄堂の環境整備はこうした山崎社長の見解から実施している。同社の躍進を見れば,この見解の正しさはきちんと検証されていると言える。

体で心を動かす

 気が進まなくてもとりあえず,体を一定のルールやリズムに従って動かす。次第に何となく先行きが見えてきて,やる気が徐々に復活してくる。こんな経験をお持ちで,山崎社長と同じように心がけている人は多いことだろう。

 評論家の福田和也氏は著書「ひと月百冊読み,三百枚書く私の方法」(PHP文庫)で,次のような主旨のことを述べている。文章が書き進められない“スランプ”はどうしてもやってくるものだ。どんなに気が乗らないときでも,とりあえず机の前に一定時間は座るようにする。そうしたスタイルをキープしていると,だんだんと書く力が戻ってくる。こんな内容である(ずいぶん昔に読んだ本で,いま記者の手元にはない。この説明には筆者の解釈が多少入ってしまっているかもしれない。正確に把握したい人は同書を参照していただきたい)。

 ここからさらに発展して記者が思い起こしたのは「型(かた)」という言葉である。しばしばスポーツや日本の武道などでは型という言葉が使われる。歴史の中で精錬された一定の動作を繰り返し,それを体に定着させることで,効率よく物事を学ぶ。体の動作から,その動作の意義や意味を頭でも理解できるようになる。これが型の意義だと言われている。型の前提となるのは,「人間の心と体は連動している」という真理。先に挙げた福田和也氏の「とりあえず机に座る」ことは型の一つとも解釈できる。山崎文栄堂の環境整備も,型の一つと言えるかもしれない。

 心と体は連動しており,ひいては動作が心を動かす。これを端的に示す話を6年ほど前に聞いた。当時,記者は日経コンピュータ誌にて「ITプロフェッショナルを襲う心の病」という特集記事を書いた。取材時,「呼吸法が心のうつ状態を脱する手助けとなる」というカウンセラーの言葉を思い出した。呼吸法とは,吐く息に意識を向けた深い呼吸を一定のペースで続けること。一定のリズムの運動が体内の血流や新陳代謝,ホルモンバランスを活性化させるため,結果として心理的にもプラスに働く,ということだ。

 口と指先ばかりに意識が向かうホワイトカラー的な仕事をしていると,動作についての意識はどうしても薄らいでいく。だが,本来人間は体と心が一体の存在である。もう一度「人の基本」に立ち戻って,自分や自社のあり方を考え直せ――。記者は数年前に聞いた話と,つい先日の取材の内容を結びつけながら,そうしたメッセージがこれらノウハウの根っこにあるのだろうかと思った。

 最近はやっている,いわゆる「ライフハック」ものも,「型」と根っこは同じだろう。ホワイトカラーの生産性向上が求められている今,こうしたノウハウの流通はありがたいことである。もとより「型」という存在が昔からあったのであれば,今も昔も本質は変わらず,ただ姿形を変えて再度流通しているということなのだろう。先人もホワイトカラーのように“生産性向上”に悩んでいたのだろうか。型を生み出した人々に頭が下がると同時に,親しみの思いも浮かび上がる。