本記事は日経コンピュータの連載をほぼそのまま再掲したものです。初出から数年が経過しており現在とは状況が異なりますが、この記事で焦点を当てたITマネジメントの本質は今でも変わりません。

ナレッジ・マネジメントは現場のノウハウを再利用するボトムアップの手法にとどまらない。その本質は,ナレッジを使った経営革新にある。だが,ナレッジ・マネジメントを経営革新に活用しているのは,ほんのわずかな企業だけである。つまり,今から挑戦すれば,パイオニアの1社になれる可能性がある。ナレッジ・マネジメントは,経営革新のニュー・フロンティアである。

野間 彰

 現在のナレッジ・マネジメントは,大半がボトムアップで進められている。例えば,有能な営業担当者のナレッジを抽出・共有し,営業担当者全体のスキルを底上げする。設計の失敗事例をデータベースに蓄積し,再発を防止する,といったものだ。いずれも相応の効果を上げることができようが,企業経営そのものを大きく変える意図を持ったものではない。

 しかし,ナレッジ・マネジメントは,経営を革新する可能性を秘めている。実際にナレッジ・マネジメントを最大限に活用し,自社の収益向上に直結させる試みが始まっている。そのやり方には,重要な経営課題を解決する手段としてナレッジ・マネジメントを利用する方法と,企業の「ナレッジ体系」そのものを抜本的に革新する方法の二通りある。

トップダウンで効果を出す

 前者のナレッジ・マネジメントを利用した経営課題解決の事例を見てみよう。電子機器メーカーのA社は,品質上の問題によって発生する,不良品の増大に悩んでいた。製造拠点を海外へ急速に移した結果,製造現場を知らない設計者が急増し,製造や保守工程のことを考慮しないまま,設計してしまうことが,その原因であった。

 大半の工場は,アジアなどに移転しており,設計者の近くに製造工場はない。製造する上で問題がある設計をしたとしても,海外工場はなんとか作り上げてしまう。かつてあったように設計図を持った製造現場の長が設計部門にどなりこんでくるということもなくなった。こうして設計者は,「どのような設計が製造工程で求められているのか」というナレッジを学ぶ場を失った。

 一方,海外の製造現場でも大きな問題が起こっていた。国内の製造現場で継承されてきた製造ノウハウが,海外現場に伝わっていない。例えば国内では,熱膨張率の異なる二つの部品の接着に硬化性の接着剤は使っていなかった。熱による膨張・収縮の中で接合部にヒビが入る可能性があるからだ。

 こうしたことは,現場のノウハウとして国内ではきちんと伝えられてきた。しかし,ノウハウの中には,書面に明記されていないものが多い。海外へ製造拠点を移した時に,書面に示された製造方法だけは移植できたが,書面にないノウハウはきちんと伝えられていなかった。

 A社の経営陣はこれらの問題を,重要な経営課題として捉えた。対策としてまず,製造にかかわるナレッジの蓄積が不十分な若手設計者のために,社内の教育体制とナレッジ・データベースを整備した。教育の講師には,定年退職していた技術の専門家を招いた。

 同時に,国内の製造現場のノウハウを抽出し,マニュアルにまとめて海外の製造現場に徹底させた。一連の対策は,A社の経営者のリーダシップのもとに推進された。このため,A社では,「ナレッジ・データベースを作ったものの,ほとんど使われていない」という問題は起こっていない。

ナレッジ管理で経営課題を解決

 データベース関連のシステム・コンサルティングで急成長を続けるB社では,新規採用した社員を早期に戦力化することが重要な経営課題となっていた。B社の新規採用者の大半は,すでに他のシステム・インテグレータでシステム開発の経験を積んだSEである。こうしたSEにコンサルティング手法をいかに早く修得させるかが,企業成長のスピードを決めることになる。

 そこでB社の経営陣は,実績を上げたコンサルティング事例からコンサルティングに必要なナレッジを抽出するよう命じた。B社の担当者はナレッジを抽出するだけでなく,これをB社の社員が活用できる方法論の形に整理した。この方法論を使って新規採用者にコンサルティング手法を徹底的に教育することで,コンサルタントの早期育成という課題を解決できた。方法論は業界別・IT別に整理され,B社はおおむね1年で一人前のコンサルタントを育成している。

 素材メーカーC社は,高い利益率の維持という経営課題を解決すべく,世界中の素材を活用するためのナレッジ・データベースを構築した。ここに集約したナレッジを営業担当者を通じて顧客に提供し続けている。素材活用のナレッジ・データベースはC社の営業担当者全員が参照できる。また,スタッフ部門がデータベースのナレッジを編集したパンフレットを作り,セールス・ツールとして営業担当者に提供している。

 これらのナレッジは日ごろから営業担当者を通じて顧客に伝えられる。この結果,顧客は新たな素材採用の検討段階で,まずC社に相談するようになった。C社は顧客の動向を競争相手よりも先に把握できるので,時間をかけて練り上げた提案を顧客に出すことができる。この結果,C社は価格競争に巻き込まれずにすみ,高い利益率を確保できている。