本記事は日経コンピュータの連載をほぼそのまま再掲したものです。初出から数年が経過しており現在とは状況が異なりますが、この記事で焦点を当てたITマネジメントの本質は今でも変わりません。

経営者が意志を持って知識活用を加速させる「ナレッジ・エボルーション・マネジメント」が必要だ。まず,「最大ポテンシャルを追求したビジョン」を構築することである。どのような革新によって,どんな成果を得るかをはっきりさせることだ。ビジョンを描くときには,ナレッジを持つ有能者を徹底的にインタビューしたり,競争相手や先進企業など社外事例を研究することが効果的である。

野間 彰

 ある大手企業の情報システム子会社A社では,親会社以外の顧客からの受注量を増やし,事業拡大を図る目的で,ナレッジ・マネジメント・システムを全社に展開した。蓄積されたナレッジは,プロジェクトの実績,提案書や営業日報である。これらを共有することでより早く,より妥当な提案を出し,商談のときの勝率を高める計画だった。ナレッジを登録するように現場へトップダウンで指示し,ナレッジの登録と利用を促進するための事務局も置いた。

 しかし提案書の作成が早くなるなどのメリットはあったものの,A社の事業が大きく伸びるということはなかった。効果が上がらないと,ナレッジを蓄積する努力が報われないことになる。やがて,ナレッジの登録・参照の活発さに組織や個人で差が出始めた。A社のナレッジ・マネジメントは形骸化の危機にあった。

 現状打開のために事務局は,ナレッジ・マネジメント・システムをうまく活用しているa事業部に行き,実態を探った。a事業部は,親会社で開発したあるシステムを,親会社以外に販売する事業を推進していた。事業部長は,A社屈指のセールスパーソンである。a事業部は,事業部長の営業ナレッジを体系化し,組織的に普及させていた。

 a事業部長の営業ナレッジとは,「親会社に眠っている,システム企画,開発プロジェクト推進,運用にかかわるナレッジを抽出し,これをセールスに活用する」というものであった。

 親会社では,システム開発の前に,優秀なシステム企画者が,時にはコンサルティング会社を活用し,システムの企画を練る。出来上がった企画を経営者に売り込み,システム投資の意思決定を促す。予算と推進体制を確定し,推進上の様々な問題を解決して,システムを成功裡に開発する。システムの開発後も,運用上のいろいろな問題を解決し,運用方法やシステムに工夫を加え,システムを企画したときの狙いを達成することに努力している。

 これらの親会社のナレッジは,A社の顧客のマネジメントに重宝がられた。顧客のシステム企画部門長にとっては,A社の親会社がどのように企画を立て,どのような提案で経営者の承認を得たかが貴重な情報となる。

 A社の顧客のシステム部門長やプロジェクト責任者にとっては,A社の親会社が見つけだしたシステム開発の技術的な注意点とともに,利用部門の巻き込みや関連部門との調整方法などが役立つ。開発後の運用情報もまた貴重である。

事業部長が知識吸収を陣頭指揮

 a事業部は,以上のようなナレッジを親会社から徹底的に抽出し,これらのナレッジを事業部内に普及させた。顧客に対する交渉力を増したり,顧客から信頼感を獲得したり,競争相手よりも早く顧客から案件の情報を得るためのお土産にしたりして,商談の勝率を向上させていた。

 このようなナレッジは,親会社からであっても,簡単に抽出できるものではなかった。A社の技術者で親会社のシステム開発に直接参画したものは技術にかかわるナレッジこそ獲得していたが,企画や推進体制に関するナレッジはほとんど吸収できていなかった。

 顧客の部門長や経営者に訴求するナレッジは,親会社の部門長や経営者から得る必要がある。システム開発に参画している技術者に獲得させるには無理がある。となるとナレッジを獲得するには,A社側においてそれなりの地位にあり,技術に加えビジネスの視点で話が聞ける人間が出て行かなければならない。そこでa事業部は,事業部長が自ら出向いて親会社のナレッジを抽出することに時間を割いていた。

 A社の他の事業部でも,親会社で実績があるシステムを顧客に売り込むことがあった。その場合,出来上がったシステムの機能や,技術的な情報のみを押さえ,これを顧客のシステム部門の担当者や中間管理職に売り込んでいた。しかし競合他社ともよくぶつかり,なかなか勝率が上がらなかった。

成功事例を全社に展開

 A社でナレッジ・マネジメントを推進する事務局は,a事業部の取り組みを全社で共有することにした。親会社のみならずこれまでA社がかかわったすべてのシステム開発案件から,a事業部が抽出・活用していたナレッジを組織的に収集する仕組みを作ろうというのである。ここでいうナレッジは,システム企画,開発推進体制,運用にかかわるものである。

 新たな仕組みを確立するための課題は,顧客との接点の拡大であった。A社は今までシステム開発という狭い範囲で顧客と接していた。これからはシステムの企画や開発の推進体制全般に広げることになる。

 A社は部門長を中心とした顧客調査チームを編成し,顧客の持つこれらナレッジを抽出した。新たな仕組みは,単にナレッジをデータベースに入れて皆で参照するにとどまらず,定期的な部門長チームによる顧客調査,本調査に基づく営業方法の構築,結果のフィードバック,という業務革新の試みを含んでいた。

 A社は現在,構築した仕組みをより高度なものにする検討を進めている。それは事業成長のサイクルを確立することである。まず市場の先進事例を積極的に調べる。今後自社が拡大すべきうまみのある領域を特定する。調査によってその領域のナレッジを集める。これに基づいて早めに受注し,実績を積み,さらに横展開していく。

 この事業成長サイクルにおいては,親会社をナレッジ獲得の場と位置づけた。親会社の開発案件の中で横展開していける案件については優先して有能者をアサインする。ナレッジを学ばせた後,彼らを拡販部隊に異動して,他社へ横展開をする。

 従来であれば,親会社のシステム開発にかかわったA社の人材はその後,親会社のシステム運営保守にも少なからずかかわっていた。それを開発後はA社に戻し,外販に当たらせるというので,親会社の現場はこの仕組みに難色を示した。

 これに対しA社は社長が自ら親会社に出向き,今後のA社のグループにおける存在価値を訴えた。「A社は親会社のシステムを滞りなく開発・運用するだけでなく,そこで得たナレッジをグループ外に展開し,A社自身の企業価値を高め,これによってグループ全体の価値向上に貢献する」という主張である。親会社の了承を取り付けることに成功したA社は,ナレッジ・マネジメント・システムを通じ,経営革新を進行させつつある。