本記事は日経コンピュータの連載をほぼそのまま再掲したものです。初出から数年が経過しており現在とは状況が異なりますが、この記事で焦点を当てたITマネジメントの本質は今でも変わりません。

IT革命なる意味不明の言葉が跋扈する一方で,コンピュータに関する原理原則が失われている。一例として,「利用者が誤りなくデータを入力できるインタフェースが重要」という原則の軽視がある。病院におけるデータ誤入力による死亡事故は,原則軽視がもたらした悲劇ではないか。アルゴリズムなど計算機科学を軽視し,ソフト・ベンダーの認定資格を重視する風潮も非常に危険である。

米田 英一

 2000年12月4日付の朝刊各紙や朝のテレビ番組で,富山高岡市民病院における投薬ミスについて報じられた。肺炎と診断されて入院していた男性患者の体内の炎症を抑えるため,男性担当医は体内の炎症を抑える「サクシゾン」という副腎皮質ホルモン剤(ステロイド剤)を注射することにした。

 ところが,パソコンで投薬の指示を作成して薬局に送るとき,注射するつもりの薬剤と隣り合って入力画面に表示されていた筋弛緩(しかん)剤「サクシン」を誤ってクリックした。サクシンを注射するとの指示を受けた薬剤師や看護婦は疑問を持ったが,特に質問はせず,指示通りに注射し,患者は死亡した。

 事実がこの報道通りとすれば,ここには昨今のIT革命騒ぎで見逃されがちな大きな落し穴がある。同時に,1999年9月の茨城県東海村における原子力発電所の事故以来,わが国でも注目されている,職業倫理の問題がある。

 私は1995年から1996年にかけて,情報処理学会の「倫理綱領調査委員会」幹事として,「情報処理学会倫理規定」をまとめた。このため,本事件における薬剤師や看護婦の姿勢についても大きな関心を抱かざるを得ない。だが,本稿では医師のパソコン誤入力という情報処理の根幹にかかわる問題を中心に取り上げる。

なぜ警告を出さなかったのか

 このニュースを読んだ(あるいは聞いた)とき,情報処理の専門家であれば真っ先に不思議に思うことがある。「医師がパソコン上で劇毒薬を選んだとき,『本当に劇毒薬を投与するのですか?』という警告メッセージをなぜ入力画面に表示しなかったのか」である。原因はいろいろあるのであろうが,多くの人が見逃している要因として,昨今の情報処理関係者にまん延しつつある「入力という行為の軽視」があるように思えてならない。

 昨今の情報システムのほとんどがそうであるように,この病院のシステムも,利用者がパソコンの画面に表示されているメニューや品名の中から該当するデータをマウスでクリックして選ぶようになっている。キーボードをたたいてデータを入力するわけではない。

 マウスでクリックというやり方自体が悪いとまでは思わないが,このような方式の場合,自らキーボードをたたいてデータを入力する方式に比べて,入力という行為に対する注意力が低下する。これは,人間の心理を考えるとき,避けられないように思う。

 さらにスーパーやコンビニエンス・ストアになると,POS端末を使うため,スキャナーでバーコードを走査するだけとなる。マウスによるクリックという自分の選択意思を伴った,ある程度は意識的な操作さえ不要になる。スーパーやコンビニのレジの係の人々にとってスキャナーがうまく読んでくれないことはあるにしても,スキャナーが読んだデータに誤りがあるなどということは想像もしていないであろう。

 このように,情報システムの利用者が十分な意識を伴わなくても操作できるようになった。この反映として,情報処理にとって非常に重要な「データの入力」という行為に対する関心が低くなっていることは間違いなかろう。

 私が東芝に入社した1950年代末の状況は今とはまったく異なっていた。当時のIBMやユニバックの紙カード 穿孔機(キーパンチ機械)では,ベリファイ(正しくはヴェリフィーション,二重検査を意味する)によって穿孔ミスを防ぐ方式が採用されていた。ベリファイの仕組みはIBMとユニバックでまったく異なっていたが,思想そのものは両社とも同じであった。

 当時はデータ入力が非常に重視されていたことを示す証しである。米国は先ごろの大統領選挙で,情報処理技術のレベルの低さを世界に露呈した。その米国でも,40年以上前のキーパンチ方式では,入力したデータの正確さを二重検査によって確認していたのである。

出力を飾り,入力を軽視

 1970年前後だったと思うが,わが国でGIGO(Garbage In Garbage Out,ゴミを入力したらゴミが出力される)という標語が流行ったことがある。富山高岡市民病院における事故の場合は,出力されたものはゴミのような可愛らしいものではなく劇毒薬であったわけである。

 IT革命だのインターネットという言葉が飛び交う現代の情報処理の世界で非常に気になることの一つは,情報処理の基本中の基本である入力の重要性について,昔に比べると意識が非常に低くなっているのではないかということである。

 1970年代だったと記憶するが,当時提唱されていた構造的プログラミングのための考え方として,IBMの「HIPO(Hierarchical Input Process Output)」という略語が流行ったことがある。

 現在のパソコン中心の情報処理の世界では,ここでいう「IPO」のうち,入力(I)や処理(P)は軽視され,もっぱらカラフルな出力(O)に凝ることが重視されている。否,病院の事故の場合は,画面上で劇毒薬には黒枠を付けるとか赤い文字で表示するなど,O(出力)の段階でも,情報の受け手の注意を喚起するための工夫の余地はいくらでもあったはずである。

 つまり,出力情報の意味や本質よりも,単に画面をカッコよく見せることに注力しがちなパソコン文明に罪があるのではないか。PowerPointなるツールをどれだけ濫用しているかによって,その企業の知的レベルが分かるといっても過言ではあるまい。

 この事故の報道について気になることはほかにもある。森内閣のIT推進政策に対して何かと批判的な記事を載せることの多い朝日新聞が,この事故について報じた記事の中で,上に述べたようなごく常識的なものも含めて,何の改善案も提示していないことである。

 また,インターネット上のニュースを見る限り,日経,讀賣,東京,産経といった各紙にも改善案は何も示されていない。インターネット版の編集方針が他紙とは異なるらしい毎日新聞には事故に関する記事さえなかった。

 森内閣の付け焼き刃的なIT推進政策を批判することは非常に結構である。だが,それには,こういう事故の際に積極的な提言の一つや二つくらいは書けるだけの見識と実力を持つことが各新聞社に要求されよう。