上田 尊江
TransAction Holdings, LLC.
CEO  Founding Partner


 今回の「不思議の国アメリカ」は番外編とした。これまでの連載とは、かなり毛色が変わった内容になるからである。今までは、どちらかと言えば、アメリカ社会の理不尽なIT利用について、批判を交えつつ紹介してきた。今回は、ある不思議なアメリカ企業を褒め称える話なので異色と言える。

 登場する企業は、SASインスティチュート(以下SASと略記)である。先日、ノースカロライナ州にあるSAS本社を見学する機会を得た。SASといえば、1976年の設立以来、常に増収増益を続けている驚くべきソフトウエア会社であり、米フォーチュン誌が毎年発表する「最も働きがいのある会社ベスト100」に調査開始から現在に至るまで10年連続ランクインするほど、従業員の会社に対する満足度が非常に高い会社である。

 今回、SAS本社を訪問したきっかけは、経営とITサイトの編集長から「SAS本社まで出張し、本当に従業員が満足している会社かどうか、見てきて欲しい」という依頼があったからである。フォーチュン誌をはじめ、アメリカのメディアで報じられる、エンジニアの理想郷としてのSASに興味を持っていたこともあり、お引き受けした。これまでの連載は、アメリカに住んでずっと疑問に思っていたことについて、こつこつと調べ、文章にしたものだが、今回は一回だけのSAS訪問に基づく印象記になる。その意味でも番外編とさせていただいた。

 経営とITサイトの編集長ほど疑い深くはないと思うが、私もまた、公表されている記事で言われていることと、SASの実態とがどれほど一致しているのだろうかと若干の疑念を抱きながら、訪問させてもらった。

本社にあるのはホテル、託児所、学校・・・

 ノースカロライナ州キャリーに所在するSAS本社は驚くほど広大だった。バスに乗って、敷地内に入ると、セキュリティゲートがあり、そこを抜けるとまず最初に登場するのはホテルだ。このホテルは元々、SASの初代本社ビルだったそうで、現在はSASの創業者でCEO(最高経営責任者)を務めるジム・グッドナイト氏の奥様が経営している。SASの中にあるホテルに誰が泊まるのかと言うと、従業員やSASを訪れるお客様である。残念ながら、今回はバスで通りすぎるだけであった。

 ホテルを左手に見ながら通り過ぎると、何棟か大きなオフィスビルが散在しており、その中にブランコなどの遊具が備わったデイケアセンターが現れた。子供を預けられるデイケアセンターはSAS社員専用であり、敷地内に2棟ある。ホテル、デイケアセンターを通り過ぎて以降も、本社とは思えぬ、会社らしくない施設が続々と現れる。

 広々としたサッカー場には芝が青々と輝いており、サイクリング専用かとも思えるような道路が森林の中に伸びている。これまた広大なフィットネスセンターがまるで公民館のような出で立ちで登場した。かつて東京で私が通っていた目黒の某フィットネスクラブの施設よりも、はるかにはるかに大きく、かつ立派なたたずまいである。フィットネスセンターの横には、社員が健康や生活のことについて相談できる医療施設「ワークライフ・センター」が併設されていた。

 さらにバスが進むと、なんと!

 小中学校まで本社敷地内に完備してあるではないか。SAS社員以外の子供も受け入れているこの私立学校は、子供のクリエイティブな才能をより伸ばし、SASを支える将来のブレインとなる人材を育んでいることであろうと勝手に想像してみた。

 驚くべき敷地内の至る所に、大きなオブジェが飾られていた。このオブジェを作成したアーティスト2名もまたSAS社員であり、「クリエイティブな人は、美術館のような環境に住みたいと思うはず」というグッドナイトCEOの考えはこんなところにも具現化されていた。

 残念ながら今回は、バスで敷地内を一回りするだけで、それぞれの施設の中に入ることはできなかった。記事などで書かれている以上に立派な施設と広大な敷地を見て回った印象は、「郊外の大学のキャンパス」といったものだった。もっとも最近では東京のIT企業が多く利用している大規模オフィス複合ビルも、広さと緑の量ではSAS本社に負けるものの、設備面ではそれなりに充実している。大抵、医療機関があり、買い物をする店やレストランがあり、中にはジムなどの運動施設や美術館も備えている所がある。そしてアートな雰囲気も忘れることなく、オブジェなどがビルの入り口を飾っている。

 問題は、こうした有意義な施設がオフィスの近くにあっても、実際に使うことができるかどうかという点にある。せっかく素晴らしい施設が同じビルに入っていても、仕事で毎日の時間と体力を吸い取られ、実際に施設を利用することができる人は非常に少ない。特に、猛烈な残業が当り前になっている日本のIT企業では、早めにオフィスを出ることは難しい。

 記事などによると、SASの福利厚生施設は実際にほとんどの社員に利用されている。SASは週35時間労働制をとっており、決まった時間に出社しなければいけない一部の職種を除けば、ほとんどの社員は自分の都合のいい時間に出勤すればいいことになっている。したがって、自分の都合に合わせて、本社の様々な施設を利用できるわけである。もちろん35時間を超えて働く従業員も出てくるが、多くのIT企業とは一線を画すように週70時間労働には陥らないよう、会社が積極的に働きかけをするそうだ。