サイモン・シン(Simon Singh)という名のインド系英国人をご存知だろうか。今年43歳になるノンフィクション作家で,数学の歴史的証明を題材にとった代表作「フェルマーの最終定理」は,数年前に世界的なベストセラーになった。著者のシン氏はともかく,この本なら知っているという読者は結構いるかもしれない。

 フェルマーの最終定理とは『nが3以上の自然数のとき,xn+yn=zn を満たす自然数 x,y,z は存在しない』という一見単純なもの。17世紀のフランスの数学者フェルマーはこれを書籍の余白に書き残し,「この命題の真に驚くべき証明をもっているが,余白が狭すぎるので,ここに記すことはできない」という思わせぶりな言葉を残したまま世を去った。

 それから3世紀にわたり,世界中の数学者たちが先を競って定理の証明に挑戦したが,ことごとく失敗に終わる。それをプリンストン大学の数学者アンドリュー・ワイルズ氏が,ついに1994年になし遂げたのだ。

 昨年に文庫化されたこの本を,記者は遅ればせながら今年に入ってから読んだ。実は,暗号化技術の進化の歴史をたどった「暗号解読~ロゼッタストーンから量子暗号まで」という本について調べていたときに,その著者であるシン氏が「フェルマーの最終定理」を書いていたことを知り,興味を抱いて,ついこちらを先に買ってしまったのだ。

 ページを繰り始めてすぐに,これまで読んでいなかったことを後悔した。あまりの面白さに驚いたのである。

 シン氏の著作をよくご存知の読者は「何をいまさら」と思われるかもしれないが,大目に見てやっていただきたい。記者は国内外のミステリーから純文学まで,小説なら何にでも手を出すほうだが,このノンフィクションよりも面白いと言える小説に出会うことは,年に何度もないと思った。だから,もしこの本をご存知でない読者がいたら,ぜひ紹介したいと考えたのである。

 冒頭は,ワイルズ氏が歴史的証明を披露する講演のシーンから始まる。証明を終えて拍手喝采を浴びるワイルズ氏。しかし,その後に証明の誤りが発見されることを匂わせながら,一転して舞台は17世紀のフランスへ。それから3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘の歴史をたどりながら,最後にワイルズ氏が,講演後に発見された誤りを修正するまでの苦しみの日々を描く。ワイルズ氏は世間から身を隠すようにして,14カ月も試行錯誤した末にある発見にたどり着き,ついに証明を完成させる。

 とにかく構成が巧みだ。証明の成功に大きな役割を果たした日本人研究者2人のエピソードでは,自殺した1人の遺志を継いで,もう1人が研究に全精力を傾ける姿など,心打たれるシーンも多い。翻訳も文句なく上手い。

 記者は「フェルマーの最終定理」を読んでいる途中で,「暗号解読」も早く手に入れたくなり,書店へ買いに走った。この著者なら絶対にハズレはない,と確信したからだ。

 フェルマーの最終定理を読了してから,すぐに暗号解読を読み始めたのだが,いやー参った。やはり期待を裏切らない面白さだ。この本も,単に暗号化技術の歴史を解説するのではなく,歴史の折々で熾烈な闘いを繰り広げた暗号作成者と暗号解読者という人間たちのドラマを描いている。

 16世紀,イングランドで幽閉生活を送るスコットランド女王メアリーは,支援者から受け取った手紙の暗号文を解読されてしまい,敵対するイングランド女王エリザベスの暗殺を企てたとして処刑台に消えた。そんな冒頭のエピソードから,最先端の量子暗号の研究成果を紹介する最終章まで,全く飽きさせない。

 人間ドラマに加え,暗号解読という推理小説的な面白さもあるので,歴史モノのミステリーとして読んでも最高に楽しめる。インターネット・ビジネスなどで現在利用されている暗号化技術を,単なる知識としてではなく,技術進化の歴史の中に位置づけて理解できるので,ITpro読者の皆さんにも大いに参考になるだろう。

 それにしても,作家としてのシン氏の力量には舌を巻く。取材力と構成力,そして難解な科学技術の世界を素人にも理解できるように易しく表現できる文章力。それらのどれが欠けても,これほど読み応えのあるノンフィクションは生み出せないだろう。出版社に身を置く編集者として,嫉妬を覚えるほどだ。

 骨太の科学技術ノンフィクションを2冊も続けて読んだので,しばらくはミステリーでも純文学でも,面白そうな小説を適当に読み散らかすことにしている。しかし,シン氏の現時点での最新作「ビッグバン宇宙論」は,もちろん購入済み。これが唯一の未読の作品なので,すぐに読むのがもったいないような気もするが,そろそろ我慢の限界が近づいてきている。