カルビーが広島市で創業したのは、太平洋戦争の傷跡がまだ残る1949年のことである。初代社長の松尾孝(故人)が家業の菓子屋を株式会社にしたのが始まりだ。当時は水あめやキャラメルを製造して販売していた。

 現在の主力であるスナック菓子を手掛けるきっかけとなったのは、1955年に発売した「かっぱあられ」だ。終戦後の食糧難で米が不足していたことから、米の代わりに小麦粉を材料にしてあられを作ったのである。このかっぱあられは西日本でヒット商品となり、発売から2年後の57年には福岡、名古屋とともに東京に営業所を開設した。これには「いつかは日本の中心である東京の市場を制覇したい」という松尾の強い思いが込められていたという。

 それから7年後の1964年、カルビーは大ヒット商品を世に送り出す。今もなお主力商品の一角を占める「かっぱえびせん」である。これは瀬戸内海で獲れた小エビと小麦粉を使って、松尾の幼少時代の好物であったエビのかき揚げを菓子に仕立てたものであった。

 このかっぱえびせんが全国的なヒット商品になり、その勢いを借りて松尾はかっぱえびせんを米国でも売ろうと考える。終戦から20年が過ぎたとはいえ、海外に進出している企業は食品産業だけでなくほかの産業でもまだ珍しかった。当時、豊かな国の象徴であった米国への対抗意識もあったのかもしれない。

 松尾孝は1967年8月に渡米する。ニューヨークで開催された国際菓子食品見本市「ファンシーフーズショー」にかっぱえびせんを出品するためだ。この見本市でかっぱえびせんは好評を得る。米国市場進出への確かな手応えを感じた孝は、三男の雅彦(現会長)を同年11月に米国市場の視察へ送り出す。

 その視察旅行の最中に雅彦が出会ったのが、ポテトチップの製造・販売を手掛けていた米国人実業家のミルトン・ブラウン氏であった。かっぱえびせんの輸出計画を披露した雅彦に対して、ブラウン氏は次のように諭したという。

「昨日作ったものを今日店頭に届けるのがスナック菓子のビジネスだ。船や飛行機で運んで売るものではない」

 かっぱえびせんのヒットがカルビーにとっての最初の転機とすれば、この雅彦とブラウン氏の出会いが第二の転機だったといっていいだろう。雅彦からブラウン氏の経営哲学を伝え聞いた孝は、かっぱえびせんに次ぐ第二の商品としてポテトチップに着目するとともに、スナック菓子の鮮度にこだわるようになる。

 カルビーは、1970年代前半に「サッポロポテト」といったジャガイモを原料とする商品を相次いで発売し、73年には本社を東京へ移す。第二の柱と考えたポテトチップで念願の東京制覇を目指す準備を整えたわけだ。そしてついに75年、「ポテトチップス」という商品名でポテトチップの販売を始める。雅彦がミルトン氏と出会ってから8年が過ぎていた。

 このとき、東京では既にポテトチップの製造・販売を手掛けている先行メーカーがおり、各地方でも地元の小さなメーカーがポテトチップを作っていた。ただし、これらのメーカーは原料のジャガイモがある時だけに生産し、ジャガイモがない時は生産を止めていた。

 カルビーは、生産地のジャガイモ農家と専属契約を結び、全国の主要な消費地に工場と貯蔵庫を整備して、工場でつくったばかりのポテトチップを一年中店頭に届けるネットワークを築いた。これは当時、非常に革新的な取り組みだったと思う。原料を輸入する食品メーカーが多い中、カルビーのように原料の栽培から店頭における販売までを一貫して管理している会社は今でも少ない。

 商品のパッケージにも、鮮度へのこだわりを見て取ることができる。例えば、パッケージの袋に製造年月日を印字したのは、スナック菓子メーカーではカルビーが最初である。「製造年月日を明記すると、日付の古いものは売れ残る」と問屋や小売店からは反対されたが押し切った。

 太陽光線を遮断して中身の劣化を防ぐため、透明なポリプロピレン製の袋から中身の見えないアルミ蒸着フィルム製の袋に切り替えた。これも「中身が見えないようにするなんて、とんでもない」と問屋や小売店の反発を食らった。さらに中身の酸化を防ぐために袋の内部に窒素を充てんした。これらはいずれも、今では菓子メーカーの常識になっている。