筆者は前回,Microsoftと欧州連合(EU)の反トラスト法訴訟に関する今週のニュースについて長い解説記事(「Microsoftに対するEUの反トラスト法訴訟が業界に与えた影響」)を書いた。今回は,同訴訟で読者に関係があると筆者が感じているいくつかの点について,解説してみたいと思う。

 今から数年前,米国内のMicrosoftの反トラスト法訴訟で上訴が繰り返されていた。その頃,筆者は,同社と戦うために同盟を結んだ米国の諸州と司法省(DOJ)を支持するという居心地の悪い立場に立っており,Microsoftを分割するのは同社とそのカスタマーにとって正しい選択だ,と確信していた。

 筆者は,間違っていた。その後の5年間で明らかになったことがあるとすれば,それは,Microsoftの攻撃性が昔と比べて劇的に弱まったことだ。実際のところ,Microsoftは臆病な企業になってしまったと言ってもいいほどだ。彼らは,市場における影響力を行使することを恐れ,米国の反トラスト規制当局が(多くの場合,Microsoftのライバルの要請によって)問題視する事柄に対しては,必死になって対処しようとしているのだ。

 Microsoftが米国の裁判所からの要求を受けて,次から次へとそれに従ったことは,憂慮すべきことだ。それを示す一番の例はWindows Vistaだろう。Microsoftは他者の要求を満たすために,このOSに何度も変更を加えたからだ。実際のところ,Vistaは世界中の反トラスト規制当局のチームが部分的に設計を担当した最初のMicrosoft OSである,という議論も成り立つかもしれない。同社はVistaの開発中に,EUの規制当局に対しても,多くの点で譲歩したからだ。

 EUの裁定は,二つの主要な問題に関するものだ。つまり,製品のバンドル(WindowsへのWindows Media Playerのバンドル)とサーバーの相互運用性(ワークグループ・サーバー市場におけるもの)である。ITに重点を置く本サイトの傾向を考えると,相互運用性の問題に比べて,WMP(Windows Media Player)の問題は重要度が低いように思えるかもしれない。

 しかし,EUがMicrosoftにWMPのないバージョンのWindowsを欧州で実際に出荷するよう求めたことがきっかけで,同社はバンドル戦略そのものについて考え直した,と筆者は考えている。その結果,昔のMicrosoftならカスタマーに無理やり与えていたかもしれない余分なWindows Liveの製品とサービスは,今のVistaにはほとんど含まれていないのだ。筆者はそのことを,Windowsベースのシステムを使用し管理する人々にとっての勝利とみなしている。

 サーバーの相互運用性に関しては,Microsoftがここ1年ほどでSun MicrosystemsやNovell,Zend,Xandros,その他多くの企業と,周囲を驚かせる相互運用性のパートナーシップを次々に結んだという事実だけで,ライバルに対するMicrosoftのアプローチがはっきりと変わったことが見て取れるだろう。EUの反トラスト監視当局の監視がなければ,こうしたパートナーシップが発生していたかどうかはわからない。そうしたパートナーシップはいずれ発生していただろうが,これほど迅速に起きることはなかっただろう,というのが筆者の考えだ。だが,それが現実に起きたことは,Microsoftとそのパートナー,そして最も重要なカスタマーにとって好ましいことだ。

 このことについての筆者の主張は,至ってシンプルだ。現在,そして未来のサーバー・ルームとデータセンターは,ヘテロジニアスな環境にある。そして,これら互換性のないシステム同士が円滑に連携できるように必死に努力することで,Microsoftとそのパートナーは,ユーザーが将来頭を悩ませなくても済むようにしているのだ。オープンソースとLinux,プロプライエタリ対フリーソフトといった話題に関して,読者がどんな見解を持っているかに関係なく,私たちは(願わくは),自分のニーズに最も合致するソリューションを選ぶときに,既存のシステムとの互換性のなさという代償を払わなくてもいい時代を迎えようとしているのだ。これは,多少空想的ではあるが興奮させられる世界観だ。それは筆者もわかっている。

 結局のところ,EUの裁定はMicrosoftにとって良い結果しかもたらしていないのではないか,と筆者は思う。それによって,最終的には同社のカスタマーが利益を得ているからだ。筆者が唯一恐れているのは(現時点では根拠のない懸念だが,一応述べておく),EUの反トラスト規制当局が今回の成功を足がかりとして,将来的に訴訟に値しない他の米国企業に対する調査を始めるのではないか,ということだ。それが現実になれば,革新と競争が不必要に押さえつけられてしまうだろう。そうならないことを筆者は願っている。