2001年9月11日に米国で起きた同時多発テロ事件は,情報セキュリティやリスク管理という点に関し,すべての企業に再考を迫っている。テロ当日に現場近くにいた,ITやリスク管理,セキュリティの専門家3人に,事件からどんな教訓を引き出し,今後に備えるべきかについて寄稿してもらった。「インターネットはサバイバル・ツール」,「一極集中は見直すべき」といった指摘がなされた。

本記事は日経コンピュータの連載をほぼそのまま再掲したものです。初出から数年が経過しており現在とは状況が異なりますが、この記事で焦点を当てたITマネジメントの本質は今でも変わりません。

ITは死なず

奥田 喜久男


 9月11日,筆者はニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)から500メートルほどの地点で,ビルの崩落を目撃した。現場で体感した二つの点について書いてみたい。その2点は,「情報の本質とは何か」と筆者に迫るほどの衝撃だった。もちろん頭では理解できたが,五感の世界で体感してみると,当人も驚くほどの衝撃を感じた。同時にITと人類を結ぶ絆があるとの確信をつかんだように思う。

 9月11日のことは何回か書いているが,当日書いたメモをもとに経緯を振り返ってみたい。11日9時5分ごろ,筆者はホテルを出てバスに乗り,ブロードウエイをダウンタウン方向へ南下,訪問先へ向かった。9時18分,五番街の交差点でWTCから出ている煙を見た。

 その瞬間,事の重大さを直感してバスから降ろしてもらい,WTCのほうへ走った。この段階では,2機の飛行機がWTCに衝突していたことなどもちろん知らない。9時45分,WTCから500メートルほど離れたところに到着した。WTCまで走った30分弱の間,気になっていたのは,あたりが非常に静かだったことである。この静寂についてはほとんど報道されていないと思う。

 消防車,救急車,パトカーは一切見なかった。したがって,サイレンの音もまったく聞こえなかった。人々の声もほとんどしなかった。あ然とWTCを見つめ涙を流している人と,気がつかないかのように五番街を歩いている人がいた。当初はちょっと異常な出来事ぐらいだったわけだ。

 ホテルに戻ってから,多くの消防士が犠牲になったと聞いた。帰国後,情報を収集してみると,かなり早い時期から「WTCで何かが起こる」という警告情報が出回っていたようだ。消防車がまったく走っていなかったのに,瞬時にしてWTCに消防士が集結していたことを思い起こすと,当局はWTCが狙われているという情報を事前につかみ,予定していた行動をとったのだと思う。

 ただし,まさかWTCが短時間で2棟とも全壊するなどということは,だれ一人として予測していなかったと思われる。筆者のメモによると,10時3分に1 棟目が崩壊し,10時32分に2棟目が「消えた」とある。WTCの周辺にいた人たちの間に,落胆と放心感が漂ったことを思い出す。WTCから500メートルの地点にいても,相当な爆風だった。そして,WTCが崩落した直後の情景を筆者は生涯忘れることができないだろう。

 筆者が目撃したのは,雪景色であった。天から大量の白いものが降ってきた。一瞬,何か分からなかったが,それらはA4判あるいはB5判の紙であった。 WTC内にあったオフィスに保管されていた膨大なドキュメントが一斉にニューヨークの空に吐き出されたのである。周囲が非常に静かだったこと,数限りないドキュメントが降ってきたこと,これが筆者が感じた二つの衝撃であった。実は,崩落した時の爆音を2度とも思い出せないのである。

 2棟目が消失した後,筆者は紙ふぶきを確認したくて,現場に接近した。WTCがあったあたりから400メートル近くまで煙にせき込みながらハンカチを口に当てて歩いていくと,あたり一面,灰色で靴が灰だらけになった。そして,灰と混じり合うようにして,膨大な量のドキュメントが散乱していた。あるものはそのままの形で,あるものは焼けこげていた。

 いくつか拾ってみると,企業の組織図,社内の管理指標,設計図,なかには遺書の控えもあり,本来であれば厳重に管理すべき貴重な情報も多かった。WTC の崩落により,ビル内にあった情報システムに格納されていた情報が失われた。同時に,重要書類が爆風の中を舞っていたわけで,情報を扱うジャーナリストとしてぞっとする思いだった。「日本の俺の机の引き出しにも重要書類が突っ込んであるな」とも感じた。

 ホテルに引き返そうと現場を離れ始めたころに,ようやく音がした。病院の救急車などが現場に向かってきたからである。警官もやってきて,半径500メートル以内を立入禁止にする黄色いテープを張っていた。