資本主義を支えたエートス(倫理規範)がプロテスタンティズムであったとすれば,ハッカー気質こそがその次に来る社会のエートスではないだろうか---そんなことを考えたのは,ブログ界の論客として知られる池田信夫氏にインタビューしたあとに,イベント「Lightweight Language Spirits(LL魂)」で“日本最初のハッカー”と呼ばれる東京大学名誉教授 和田英一氏の「ハッカー気質について」と題する講演を聞いた時だ。

使い複製することで価値が増すプログラム

 池田信夫氏は,資本の稀少性を前提条件とする資本主義とは別の原理でインターネットは回っていると指摘する。資本のわかりやすい形が工場やオフィスであり,資本が貴重であるがゆえに,相対的に安価な労働力を工場に集め働かせる。

 しかしインターネットにおけるソフトウエアやコンテンツの生産では,資本は事実上希少ではなくなる。誰もが生産手段たるコンピュータを所有し,データをコピーするコストはゼロだ。人間は工場やオフィスに集まるのではなく,分散して問題を解決しものを作り上げていく。そこは資本主義とは別の原理が支配する場所になる(池田信夫氏インタビュー「なぜウェブは資本主義を超えるのか」)。その“資本主義とは別の原理”は,ポスト資本主義社会や知価社会など様々な名前で呼ばれてきた。

 それはソフトウエアやコンテンツに留まるものではないと書籍「ウィキノミクス」(ドン・タブスコット,アンソニー・D・ウィリアムズ著,日経BP社刊)は言う。金鉱山会社米GoldCorpは地質データをインターネットで公開したことで世界中から鉱脈の所在地を予測した分析が寄せられ,その結果,250トンの金を発見した。P&Gは2010年までに新サービスや新製品につながるアイデアの社外調達率を,50%に引き上げるという。

ソフトウエア生産の効率を最大限にするための倫理規範

 マックス・ウェーバーが資本主義の倫理規範として指摘するのがプロテスタンティズムだ。それは職業を神の与えた恩寵とし労働を美徳とする精神である。定時に出勤し一斉に働く。希少な資源である資本の稼働率,回転率を向上させるために,勤勉であることはきわめて重要な条件だった。

 社会の価値観は,その社会を支える生産基盤に最も適合するもの合わせて形成されていく。水田稲作を基盤とする社会で協調と調整型リーダーが重んじられるように。

 同様に「ハッカー精神」は,複製コストゼロの空間でプログラムを書くという生産様式において,その効率を最大限に高めることに適した価値観であると記者は考える。ハッカーと呼ばれるプログラマの生産性は通常のプログラマに比べきわめて高いと言われる。インターネットやWebサイトの基盤となっているソフトウエアの多くはハッカーと呼ばれた開発者によって作り上げられてきた。

「信頼」と「ユーモア」が現代の希少財である「人」を集める

 「ハッカー精神」については,オープンソースの理論的指導者であるEric S. Raymond氏の有名な文書「How To Become A Hacker」(山形浩生氏らによる日本語訳)がある。ここでは筆者が考える重要な要素として,「信頼」と「ユーモア」について触れておきたい。

 「信頼」はまつもとゆきひろ氏が「Rubyの真髄」として語った言葉だ(関連記事)。他人のコードを信じること,そしてその信頼に答えることが,コードという,使っても減らない,あるいは使えば使うほどその価値が増す富を共有し豊かにするための冴えたやり方だ。そしてRuby上のフレームワークRuby on Railsはまさに「信頼というスキル」を身につけた技術者たちによってありえないスピードで進化したと,Ruby用HTMLテンプレートライブラリ「Amrita2」の作者である中島拓氏は言う(関連記事)。オープンソースはハッカー精神の,そしてソフトウエア開発の全地球的な効率追求の必然的な帰結である。

 ハッカー精神のもう一つの重要な要素が「ユーモア」だ。和田氏はハッカーの条件はplayfulであることだと言う。GNU(Gnu is Not Unix)という再帰し永遠に実体にたどり着かない名前やyacc,lexx,pythonなどの動物の群---彼らのジョークはその作品のそこかしこに見ることができる。

 なぜユーモアが重要なのか。それは,資本が希少でなくなった世界においてボトルネックになるのは,人間の頭脳であり才能だからだ。人々を巻き込むのは必ずしも金銭的な見返りではない。fun(楽しみ)が人を集める。

メインフレームの時代に作られた開発方法論

 書籍「ウィキノミクス」は,この巨大な変化を「ソフトウエアは最初の一歩に過ぎない」と指摘する。

 しかし,現実には「ハッカー精神」に基づく開発スタイルはソフトウエア開発全体から見ればまだ少数派だ。かつてメインフレームは工場のような希少な資本であり,その上でのソフトウエア開発はメインフレームを遊ばせることのないよう,人間が列をなして処理を待っていた。業務ソフトウエアは今でも基本的にその時代の開発方法論の上で作られている。

 もちろん,現実のリアルな金銭や物流を司るシステムは,現実のルールに従わなければならない。メインフレームでもオープン系システムでも変わらない原則は数多くある。

 しかし,LL魂などでハックについて楽しそうに語り作品を披露する技術者たちと,長時間残業などでIT業界に貼られる「3K」というレッテルを見比べたとき,ソフトウエア開発の現場を改善するための答えが「ハッカー精神」にあるのではないかと思わずにはいられない。我々が開発に使っているソフトウエアのほぼすべては既にメインフレームからではなく,ワークステーションやパソコンから生み出されたものなのだから。